家久君上京日記
(四)
京都出立~伊勢参り


凡例・「 」は原文のママ ・(* )は原文注釈  ・「・・・」は文中省略 
   ・(  )・(?)及び(注・*)は当方で記入の注釈
   ・傍線は注意事項、あるいは注釈を省略するために、当方で引いています。
 

 <伊勢へ向う>

下醍醐から上醍醐・横嶺峠経由で近江に入り、伊賀から伊勢へ向かい、帰路は奈良を見物し、一旦京に戻ります。

   

天正三年(1575)五月

5/27 「一 廿七日、伊勢參詣ニ打立候へハ、五条の橋の本まて紹巴おくり、酒飯をもたせられ候、夜の程ハ食事成かたきを見及候哉、懇志無比類候、さておの へ暇乞、立別行ハ、醍醐を打過、近江の内伊井の尾(山城の内宇治郡ニ尾:にのお)といへる村を過、はた(近江滋賀郡外畑)といへる所ニ而関有、其次に桜谷の渡賃(瀬田川)、に(ママ)猶行てとひ河(富川)といへる所に関有、亦うそ(*納所)(のそ:甲賀郡)といへる所に関有、猶行て野尻といへる所に関有、其よりあさみや(*朝宮)といへる村有り、いのよ兵衛といへる者の所に一宿、引手四条油小路新覚坊といへる山法師、」

(注)下醍醐から上醍醐へ向かい、醍醐山の北麓「横嶺峠」を越え、西笠取村を西笠取川沿いに南下し、山城の二尾(にのお)から近江石山外畑に入る。二尾は山城の国境に位置するが、ここまで下って近江国に入ったと勘違いしたのではあるまいか。二尾を過ぎて近江国である。下醍醐から「横嶺峠越」までは険しい山道であるが、当時西国三十三所巡礼道として上醍醐寺・岩間寺(正法寺)へ向けて往来が盛んであった。岩間寺から北東、石山へ向けては三十三札所の内、石山寺がある。
追記2014.09.18):この区間は当初下醍醐から 醍醐道を南下し、天下峰の南麓「長坂峠」経由、国境の二尾(にのお)に出たと解釈していたのだが、最終チェックで京都市と大津市に照会し、上記ルートに訂正。両市学芸員の意見が一致。

(注)甲賀郡朝宮の宿は四条油小路の新覚坊という山法師が手配したと記す。京都4/18以降に「先達」らしき者は登場しない。但し、伊勢までは「御師」との対応の関係から「先達」がいたのではないかと思うのだが...。「新覚坊」が新たな「先達」の可能性も捨てきれない。京都4/18に記載したように、伊勢までは誰かが「先達」したと思うのだが。
伊勢から奈良へ向けては、6/4奈良と6/5寺田での宿泊場所の表現は、明らかに趣が違う感じである。同行者が先行し宿泊所を手配していた様でもあり、現地についてから決めていた様でもある。奈良の見学コースは紹巴が事前に計画立案・段取りをしているようである。

         

5/28 「一 廿八日、早朝打立、くハうか(*甲賀)の内小河(*川)の城有、さておたけたうけ(御斎峠:おとぎとうげ)といへるを越、伊賀の内小田市(伊賀阿拝郡)といへるに関有、さて丸山(伊賀郡)といへる所に関有、猶行てあおの村(伊賀郡青野阿保)竹室三郎兵衛といへるものゝ所江一宿、」

(注)小川城:近江甲賀郡信楽多羅尾・代々小川氏(鶴見氏)の居城であったが、長享元年(1487)に多羅尾和泉守これを攻略。天正10年(1582)本能寺の変の際、堺見物をしていた徳川家康が伊賀越えで一夜を明かしたのがこの小川城と伝えられる。文禄4年(1595)に多羅尾小太の娘が豊臣秀次に嫁していたことから秀次に連座して改易されるが、後に家康に召し出されて旗本となり江戸時代には多羅尾代官屋敷を構えている。これは光俊・光太父子が家康を守護した恩に報いたものといわれる。

  <伊勢に入り、初瀬街道・旧伊勢街道を山田へ向かう>

伊勢国は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、織田信長は永禄年間に北伊勢に勢力を強め、永禄12年(1569)南伊勢に侵攻、大軍を率て北畠氏大河内城を包囲、篭城戦の末10月に和睦し、二男織田信雄を北畠具教の子具坊の養嗣子として送り込むことに成功する。具教は現多気郡大台町の「三瀬御所」に隠居する(大河内城の戦い)。信雄は大河内城を廃し、田丸城主となる。後に北畠具教は天正4年(157611月に「三瀬の変」によって信長の命を受けた信雄により殺害され、信長は伊勢攻略を終える。天正5年には伊勢各地の関所を廃止させる。(wiki

5/29 「一 廿九日、あを山越(阿保・青山峠越)をして、伊勢のうち入道かいと*垣内ヵ)いへる村に関有、次ニお山と(小倭)の谷といへる所ニて関五有、亦駒の口とて関有、亦大ぬさ(大仰?おおのき)といへる所ニ而関(雲出川渡りか?)、次に長野関(不詳)とて有、亦田尻に伊賀関(井関か?)とて有、其ゟ行て三わたり(三渡)といへる所を打過、平尾(*生)といへる所、臺屋関といへる者の所に一宿、」

           

(注):初瀬(はせ)街道を青山(阿保)越えして伊勢国に入るが、青山峠を過ぎて小峠~垣内(かいと)間は、国道の北側垣内川支流沿いの谷に沿った鋭角曲がりの続く難路。(要検索:『三重の文化』・「みえウオーキングマップ歴史街道・初瀬街道」・三重県)

(注)入道かいと:津市白山町垣内:一志郡垣内(いちしごおりかいと)

(注)お山と:一志郡中ノ村小倭(おやまと)。明治になって「小」の字を抹消し「倭」(やまと)。ここは、「お山」の「との谷」ではなく、「おやまと(小倭)」の「谷」と解すべき。白山町中ノ村中央部に「倭小学校」・「倭駐在所」・「倭12」という信号機交差点がある。(要検索:小倭)
それにしても「関五有」は異常である。垣内(かいと)を過ぎて中ノ村・小倭前後の蛇行する大村川瀬渡り数箇所を含んでいたのではあるまいか。この付近の初瀬街道はほぼ国道と大村川沿いのルート。瀬渡りは少なくとも三箇所はある。生活道のために板や丸太、飛び石を設けても多数の異国参宮者から何がしの銭を徴収していたのかもしれない。これは素人邪推か?
京都から伊勢へ向けては「関」が多いが、往来が活発なためか通行料さえ払えば問題ないようである。京と奈良から伊勢参宮道として観光ルート化しているようである。現代の観光地駐車場や有料道路のようなものか?駐車可能な場所は全て有料化されている。
織田信長天正4年伊勢攻略後、関所を撤廃する。

Tuika4_42014.09.25):この区間は、小字名らしき関名が多数出てくるので、「入道垣内」・「あやい笠」等を含め三重県に照会。三重県立図書館からの回答として、
・入道垣内村(にゅうどうがいとむら):『日本歴史地名体系 24:平凡社』に、「元禄13年(1700)の「伊勢国郡村庄録」等に「入道垣内」とみえるが、ほとんどは「垣内村」と記す。」
・小倭(おやまと):『日本歴史地名体系 24:平凡社』の「小倭郷(おやまとごう)」の項に、「雲出川と支流の垣内川と榊原川に挟まれた諸集落を郷域とした中世の郷。小倭・小倭七郷ともいわれた。入道垣内・稲垣・古市・上野村・中ノ村・佐田・南出・岡村・大村・三ケ野・谷仙・大仰の十二村が当郷域であったという。」 これは、街道筋に限っても、一志郡垣内(白山町)から同大仰(一志町)まで含む広域郷である。さらに「中ノ村が小倭郷の中心地であろうか。」とある。近世になって各村の規模が大きくなるのにつれて「大字」が逆転しているようである。
・駒の口:中ノ村の「白山郷土資料館」の国道の南側に対面する県道28号線の両側に小さな低い丘があるが西側が中ノ村城址で、東側の82.2M三角点の丘に「駒の口山神」の祠があるそうだ(文献名省略)。ここは、一志郡中ノ村から最後の大村川渡りをして一志郡岡村に入る瀬渡りが「駒の口の関」だったかもしれない。ちなみに、この県道が国道から南分岐する信号機交差点が「倭1」交差点。
・長野関:不詳

      
                 
一志郡中ノ村中心部、及び(想)駒の口付近

6/1 「六月朔日、早朝打立、あやい笠といへる村(松阪市上川付近か?)を通る、是あミ笠をあむ村也、次にくした(櫛田)河渡賃、其ゟ行て斎宮、其次に繪馬をかくる鳥井有、次ニ笛吹の橋、次ニみやうしやう(*明星)か茶屋、亦臥見坂、次につち(土)大仏、たまる(*田丸)の城みえ侍る、さて宮川を渡、はらひ仕候へは、祢き(禰宜・下級神主)ともあまた來り、よろつの事を申かけ、ものを取候、其おり節、安藝國の人妻子を引くし參詣なるか、御參詣せんとてはた帯なとをもときおきけるを、祢き(禰宜)是をうはいとらんとするを、河の中より走あかり、はたかすもう成けれハ、手にかゝへたる物をも忘、女子の事ハいふにおよはす、諸人のミる目をもはハからす、ふりまハるこそはかなけれ(みっともない)、其ゟ関二ッ有、やかてやう日(山田)の町見かしき大夫へ著候へは、種ゝの会尺、其より内外(*宮ヵ)・外宮へ參、道すから霊佛れい社神變筆に及はす、殊更六七歳の童女文珠堂にてかねを打、扉を開、さま の林(*体ヵ)をなす事、一遍に文殊のさひたん(*再誕)かと目を驚候、さて天の岩とに參、其より歸宿、」

(注)あやい笠といへる村:ここも上記区間と合わせて地名照会。「永享4年(1433)、室町幕府第6代足利義教の伊勢参宮に同行した権大僧都・僥倖がまとめた『伊勢参宮紀行』に「あやひかさ」という地名が出てくる。ただ、現在は地名がなく立入(立田)の少し手前付近ではなかったかと思われる」そうで、特定できない。当初想定の川上付近と大差ないようである。
(注)「七十一番職人歌合」四十四番左に「瓦焼」、右に「笠縫(かさぬい)」
(注)田丸城:度会郡田丸(玉城町田丸)・建部3年・延元元年(1336)北畠親房によって築城されたとされる。南朝方の拠点として伊勢神宮を抑える戦略的な要衝として争奪戦が繰り広げられる。戦国時代織田信長の伊勢侵攻に伴い北畠具房の養嗣子となった織田信雄の居城として天正3年(1575)に改築され、三層の天守を持つ近世城郭へと生まれ変わるが、5年後天守を焼失。江戸期になって紀州和歌山藩の所領になる。

(注):伊勢はまるで観光地・俗地化しているようである。神職階位は順に、宮司・禰宜・権禰宜であるが、ここに登場する参拝者にまとわり付く多数の祢きは、一般職員の禰宜や官掌たちであろう。
伊勢神宮参詣は意外と簡潔であるが、荘厳さに俗語を必要としない感銘を受けている。
(注)盗人祢きは案外、現代で言いうところの「なりすまし神主」かも。安藝の妻子を連れた巡礼者はとんだ災難である。裸相撲のあとどうなったか?無事に安藝まで帰ったかどうか?
(注)六、七歳の童女は、帰路温泉津の出雲阿国わらばへまで、京都長期滞在を含め様々な形で登場する。

<奈良へ向う>

6/2 「一 二日、御くう(供)あけ、其より下向、さて行を、はた(八太)といへる村かひと滿五郎といへるものゝ所江一宿、」

(注)初瀬街道を折り返し奈良へ向かう。一志郡八太(はた)に宿泊。

6/3 「一 三日、早朝打立、伊賀のうち入道かひ(*垣内ヵ)といへる所、中河善十郎といへる者の宿へ立寄り、卒度やすらひ亦出行ニ、ふる(*古)山一番寺とて有、一見候へは、ちや(茶)たへよとありし間、其分にて、Kanzisate01a (また)打立行に、はつた(*治田)(ハッタ)と云る村、くうや次郎左衛門といへるものゝ宿かり枕、」

<奈良を見物し、京に戻る>

6/4 「一四日、松の瀬(不詳、遅瀬付近ヵ?)の渡賃、其より北野といへる村有、徊らい出行は、はちふせといへるたうけ(鉢伏峠)を越、奈良へ入、左方ニつゝ(*筒)井の城有、亦行て心前の拾弟きたのはし新三郎といへるものゝ所江立寄候へは、すいはん酒にて會尺有処に、あかし彦左衛門といへるもの來り、薩摩にて参候ての故、宿かすへき由申間、まかり候へは種ゝの會尺、其より其あたり一見候、猿澤の池わきもこりねく「*本ノマゝ」、たれかミはさもこそあらめとて、鮒鯉なとの滿洗侍るに、めう(*に)留ける、さて興福寺一見、」

6/5 「一 五日、東大寺の内、新禪院一見、其ゟ大佛へ参、さて若草山・二月堂、北の方に手向山有、さて八幡へ參候へは、神前にみかんの木有、實なり色付て、花も葉も枝にましハり侍るは不思議にこそ其實ゆかしけれハ、こらへて罷通、春日へ毎日兩度(朝晩二度)御供とゝのふる所有、Kanzisate01a_2 (また)春日四所明神へ參候へハ、八乙女はふり子神前にさふらひけるに、御神樂をあけ申候、下向に雪けの澤とて有、さて宿へ歸り、會尺様ゝにて打立、一乗院といへる寺一見、さて棹川を渡、多門山の城一見、其家中あまたの間、ことことく見めくり、其内に楊貴妃の間とて有、此間よりミるに遠近の名所のこりなし、まつ伊駒のたけ・秋しの(*篠)・西大寺・立田山・二上のたけ・たえ滿(*当麻)寺・天のかく(*香具)山・飛鳥川・多武の嶺・吉の(*野)・初瀬・三輪・ふる山・磯の上・高圓寺・羽かい山、みな みえ侍り、其二階にて山かた對馬守此城の番(城番)也、手つからほん(*盆)に山桃を入持來られ、酒をすゝめられ候、巡礼支度なれは、誰とはしられしと熊手をさしあけ、其楊桃をこいとり、しはしもてまさくりけるも今は恥かしKanzisate01a_3(また)馬をさゝせられへき由ありしか共、巡礼の身にてハと斟酌仕、やゝ行ほとに、般若寺の文殊堂といへるに、奈良衆あまたすゝ食籠持來り酒ゑん、其より道のわきて遠かる泉河(木津川)を渡に、わたり賃と有しかとも、山かた衆よりくハしよ(*過書ヵ)をもつてしらぬ人をも多ゝ召烈(列)とをり候、其より水上にかせ山、其東に三か原、猶行て右方にこまの渡、其より西にはゝその森、其次に井手の里・井手の玉水、猶行て寺田(山城久世郡)と云る村のちまたにて、薩广の大輔の聖道に行合ぬれは、たかひに見忘れけるか、さすかあやしとやおもはれけん、追つきて其名のりをし、引留られ候まゝ一宿、奈良衆紹巴の弟子宗慶同心、」

(注)花の付いたみかんの果実(枝)に不思議で興味が尽きぬようである。不思議で心を引かれたがその場を離れた。春日に朝晩御供えを支度する所があった。
(注)
多聞山城:過っての松永彈正(久秀)居城。城内には御殿など豪華な建築が立ち並び、中でも四重天守は安土城と並び近世城郭における天守の先駆けともいわれている。ロイス・フロイスにも紹介されている。
永禄三年(1560)築城開始、同四年入城。天正元年(1573)久秀は15代足利将軍義昭と同盟し織田信長反旗を翻したが圧倒され、信貴山城に立て篭もるが降伏、自害。多聞山城には明智光秀、次いで柴田勝家が入った。翌二年(1574)には、信長が検分のため入城している。天正四年(1576)信長は筒井順慶を大和守護に任じ、多聞山城の破却を命じる(現若草中学校)。家久はこの間隙に見学したことになる。それにしても懇切丁寧な対応である。「多聞山城に着いたら、私の名前を言え」。近江坂本城明智光秀が言ったか?織田氏側から事前に連絡が入っていたのかもしれない。
ここでも当時最先端の城郭についての記載が無い。

(注)家久は「巡礼支度なれは、誰とはしられしと熊手をさしあけ、・・・、今は恥かし」なのである。やはりお殿様は衆目を気にするようだ。
(注)大輔の聖(ひじり):薩摩の大輔という名の山伏か修業僧に道で出会い、一旦はお互いにすれ違ったが、・・・。

6/6 「一 六日、早朝打立、宇治ニ着、平等院一見、東に朝日山、その麓に渡の河に橘の小嶋、水上に款冬の瀬、其上にたうのしま・朝日山、其後に喜選法師の住給し所とて有、亦こなたに扇の芝・宇治の指橋姫の明神、河の向に三室、其より槇の嶋、橋の横三間、たて十七間也、Kanzisate01a_4 (また)槇の島古田賀兵衛入道玄良といへる人の方江立寄一見候へハ、巡礼何もたへよかしと有之間領掌仕に、軈て(やがて)食をいたし、内へと申され候へ共、只これにてとて縁に居候へハ、さらはとて其儘(そのまま)我か内よりしやうハん(料理)酒をそれ と候まゝ、五はいつゝけ候へハ、ほめられ候もかた原(腹)いたくこそ、さて其比迄また鳥屋ニいらさるたか(鷹)をミせられ候、きとく(奇特)の由申候、さて四帖半茶湯の座敷によひいれられ、ちやともたへさせられ候、其より清泉寺迄送られ候、舟中にも酒をのせ、地下衆兩人舟に乗、一人ハ舞をまわれ候、さて名所なとをミるに、槇島より北西に伏見、其より未申方ニ小倉の入江、さて跡にこハタ(*木幡)、其より北に藤乃森、深草、其より東にすミ染のさくら、さて行て稲荷に参、少やすらひ、井の本に立寄、水のむへき由申候へ共、其家の有主酌をうはい取、水をさへおしむ、まことにかき(*餓鬼)の心にこそ侍れ、さて宗慶にいとまこひし、行て三十三間(*堂脱ヵ)に參候へハ、和田玄蕃・一閑齊迎ニとて來られ候、其より紹巴の館のことく歸候、」

(注)家の中に入れと勧められたが、巡礼姿なので縁側のままでいいと断っていると、それならば、・・・・。酒の飲みっぷりがいいとほめられ、赤面している。

6/7 「一 七日、衹園會一見に罷出候、先下京の宿へ紹巴同心にて罷下、其より打立、稻葉(*因幡)堂を打過、夕顔の宿とて塚有、猶行て河原の院の跡有、籬か島、さて衹園へ參候ヘハ、ほく(山鉾か?)とて*本ノママ」六本山なととて引候、それ終候て四条の道場にて近江の進藤殿(進藤賢盛)見參仕、武田殿と信長の軍物語承、其より紹巴の館ことく歸候処、近衛(*前久)殿様より進藤左衛門太夫(*長治)殿御使、同尊書被下候、」

(注)六本山:京都十六本山はweb検索。

(注)進藤賢盛(かたもり):南近江国人で近江戦国大名六角氏家臣であったが尾張織田信長近江侵攻後、信長に臣従、旗本として各地を転戦。本能寺の変後信雄に仕えのち豊臣秀吉に仕える。進藤氏の家久訪問は織田氏の使いか?
(注)軍物語:「長篠の戦い」の顛末を聞いた。
ここは鉄砲による武田軍殲滅の模様をつぶさに聞いた筈であるが、こうした核心部分の内容は、明智光秀との面談・多聞山城の城構え・帰路の堺や石見銀山銅山主関係を含め「日記」には記されていない。意図的であると思われる。

(注)近衞前久(さきひさ)・前嗣(さきつぐ):戦国動乱期から江戸初期にかけての公家。関白左大臣稙家(たねいえ)の長子として生まれる。天文24年(1555)には関白左大臣から従一位に昇叙される。動乱期に於いて朝廷の政治的・経済的復権を目指し、精力的に武家と接し活躍した特異な公家として知られるが、和歌・連歌に優れ、書道・馬術や鷹狩りなどにも精通した人物。
永禄2年(1559)上洛してきた上杉謙信と盟約し、同3年越後に滞在、謙信の勢力拡大と上洛に協力するも、かなわず帰洛。永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じ上洛を果たすと、永禄8年(1565)の「永禄の変」関係(三次三人衆や松永久秀の将軍足利義輝殺害を認め、松永らの推す足利義栄の将軍就任を決定。)から義昭との確執が生じ、京から追放される。初め丹波の赤井直正を頼るがのち本願寺11世顕如を頼り関白を罷免され、石山本願寺に移り将軍義昭・関白二条晴良の排除を画策する。天正元年(1573)に織田信長が将軍義昭を追放し、信長の上奏により天正3年(1557628日帰洛すると信長と親交を深め、信長の要請の形で同年9月には薩摩鹿児島の島津義久に下向し、島津家による大友・伊東氏らとの九州騒乱調停に活躍する。天正5年(1577)に京都に戻り、次いで信長と石山本願寺との調停に乗り出し、天正8年(1580)に顕如は石山本願寺を開城し退去する。これに対する信長の評価は高く、以後親交を深めるが、「天下平定の暁には近衞家に一国を献上」の約束を得たといわれる。天正10年(15823月の甲州征伐には信長に同行する。同年62日の「本能寺の変」により、失意の内に落飾して龍山と号すが、さらに「明智軍が前久邸から本能寺を銃撃した」と讒言に遭い、織田信孝、羽柴秀吉の詰問を受ける。このため、以後は親しかった徳川家康を頼り(かって松平から徳川改姓の労を執る)、遠江浜松に下向する。一年後家康の斡旋により秀吉の誤解が解け京に戻るが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで両者が激突したため、再び立場が危うくなった前久は一時期奈良に身を寄せる。両者の和議が成ったのち帰洛する。同年7月官位により政権の正当化を図る秀吉の強要により、秀吉を猶子とし関白就任の道を開くが、秀吉は関白就任後豊臣姓を創始し近衞家との関係を切り、以後公家社会は武家政権に飲み込まれていくことになる。
近衞前久は慶長5年(1600)「関ケ原の戦い」に敗軍となった島津氏落人を保護したうえで、家康との和平交渉に奔走し、同68月家康から島津領安堵の確約を取り付ける。晩年は慈照寺東求堂に隠棲し、子息信伊(のぶただ)の関白就任を見届けた後、慶長17年薨去。享年77
朝廷の政治的復権活動は、近衞前久死後も彼の孫に当たる「後水尾天皇」らによって続けられるが、徳川幕府の強権によって完全に埋没してしまい、これは幕末期まで続くことになる。(詳細検索:   wiki ・ 谷底ライオン)

島津家久が近衞前久使者進藤長冶から受領の島津家宛親書は、信長の意向を受けたものであると思われる。三次三人衆・顕如らが決起した「信長包囲網」に、石山本願寺を頼った前久が無関係で、単に将軍義昭排除が目的で織田氏と利害関係はなかったと思われる。むしろ、この時期既に前久が信長と親交、信任を受けていたことを物語る。京都滞在中の5/22にも近衞前久使者進藤長冶の訪問を受けている。 
一方、家久の近江坂本城訪問を含む京都長期滞在は、織田氏との接触が大きな目的であったことが窺われる。今回の家久上洛に際し、近江坂本城の明智光秀は「長篠の戦い」準備に慌しい信長の命を受けた接待役であり、京都滞在において異常なまでに親切に応対した野村紹巴についても近衞前久(織田信長)の意向を受けたものであると思われ、織田・島津両氏の秀でた政治的戦略の一端が見てとれる。翌日の京都出立では、織田信長家臣古田織部に途中迄送られるのである。

<帰国の途につく>

一旦、尼崎から堺により、丹波・但馬・因幡経由、石見銀山・温泉津・浜田へ向う。

荒木村重有岡城ではびっくり仰天あっけにとられ、因幡若桜では山中鹿之助の若桜鬼ケ城乗っ取り事件に遭遇。温泉津では出雲阿国の類らしき出雲衆わらハへ(童部)の能とも神舞ともわからぬ不思議な舞いに歴史的出会いをするのです。 

     
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