家久君上京日記
(五・完)
京都~串木野帰着
凡例・「 」は原文のママ ・(* )は原文注釈 ・「・・・」は文中省略
・( )・(?)及び(注・*)は当方で記入
・傍線は注意事項、あるいは注釈を省略するために、当方で引いています。
一旦、尼崎から堺により、丹波・但馬経由、因幡若桜から山陰を西下する。
復路の荒木村重有岡城ではびっくり仰天あっけにとられ、因幡若桜では山中鹿之助の若桜鬼ケ城乗っ取り事件に遭遇。温泉津では出雲阿国の類らしき出雲衆わらハへ(童部)の能とも神舞とも判らぬ不思議な舞いを見ることになります。
天正三年(1575)六月
・6/8
「一 八日、下國に打立候、紹・昌同心にて東寺へ參、大師へ御りやうくの參を拝見申、其より宗久といへる入道の所へ、紹巴より食もたせられ候てたへ候、さて其より紹巴・昌叱へいとまこひ仕、古田左介といへる人下鳥羽迄おくられ候、其道すから、戀つか、鳥羽院の跡有、軈て秋の山、さて下鳥羽より舟にて淀川、亦きつね川(木津川)に舟つけて八幡(石清水八幡宮)へ參、是迄左介小者つけられ候、其より行て、いはら(*茨)木の村藤持寺の観世音の御堂にかり枕、」
(注)古田佐助(古田重然:しげてる・しげなり):信長、のち秀吉家臣。武人としてよりは茶人古田織部・織部焼として知られる。利休の弟子で「利休七哲」の一人。茶の湯を通じ、朝廷・貴族、社寺・経済界と様々につながりを持つ。関ケ原の戦いで東軍に与するが、大阪夏の陣に謀反に連座したとされ家康に切腹を命じられる。重然はこれに対し一切、釈明せずに自害する。千利休事件を彷彿とさせる。(wiki等)
*織田信長の島津氏への配慮が読み取れる一節。
・6/9 「一
九日、夜中に打立、吹田を通、右方に城有、亦左方に新城有、猶行(ママ) 城あまた有、さてあまか(*尼)崎より舟おし出候、難波のうら(浦)なとみへわたり、さて堺の車町木屋宗礼ニ一宿、」
(注)木屋宗礼:木屋氏は室町期堺車之町の有力商人で堺会合衆構成員の一人と思われる。宗礼は不明・不詳であったが、関連氏名と思われる者として、「木屋宗観」が證如上人「天文日記」天文六年(1538)に「堺南北十人の客集」、「渡唐の儀相催す衆」の一人として文出。(要検索・木屋宗観:PDF文献二、三有り)
この頃、鉄砲は種子島の範疇を過ぎ、堺で分業によって大量生産されていた。島津氏と関係する商人であったかもしれない。元来、「木屋」は材木商人を表わすものか?屋久杉を想起させられる。堺訪問は、近江坂本城明智光秀との面談、帰路の石見銀山銅山主訪問と並び重要な訪問先であったと思われるが、これらの訪問内容は、日記には一切記録がない。
・6/10 「一
十日、住吉參詣候へハ、木屋酒飯もたせられ候、松原にてもてあそひ、さて歸るに堺の町ゝ一見、其夜ハ鳥まて酒宴、」
<摂津尼崎から多田経由、駒鞍越を丹波へ向かう>
・6/11 「一
十一日、亦あまか崎のことく渡候へハ、宗礼又方ゝの知人、ねころ(*根来)・高野なとゟも、亦京よりの衆も舟に酒もたせられ候、名こりおしミかほにくミかはしわかれ候、あまか崎の前中宿に立より、軈而(やがて)打出て有岡の市場こものや与左衛門といへる者の所ニ一宿、また日高きほとに、荒木とのゝ石蔵の普請見物、諸侍自身石をはこひ超過の躰、目をおとろかし候、さて黒田六郎左衛門晩食調候、夜入地下衆相撲取候、」
(注:荒木村重有岡城(伊丹城)では、石垣普請をしていたので見学したが侍達が自ら石を運び一生懸命働いているのにはたまげた。
(注)黒田六郎左衛門:京都5/20文出の人物と同一人と思われる。有岡の宿の酒肴を手配したか。
(注)「七十一番職人歌合せ」六十三番左に「競馬組」、右に「相撲取り」。
・6/12 「一
十二日、夜を籠て打立、池田の宿を通、たゝ(多田・多田院)のうちはつか(羽束)の郭なから、夕の空の月の瀬(槻瀬)といへる村、北林彦左衛門といへるものゝ所に詠臥侘ぬ、」
(注)ここは、廿日月の夕空の様子を歌に喩えたか(古に羽束山と槻瀬を月に喩える和歌数首あり)。 この区間は、「はつか」と「月の瀬」があて名のため難解で、おまけに「槻瀬」の手前にある筈の「大原野」の記載が無く、翌13日に類似地名「大野原」が記載されているため、解釈困難で各種地図とにらめっこ、読解不能なら槻瀬から「高平」の南端を西に向かい「大原」という地から176号線三田相野へ合流する二ルート記載しようと思った位い難解でした。「はつか」の関連地名については、「羽束山」と「波豆川」があります。結局12日は池田から北上し多田・多田院から多田銀山(ぎんざん)を抜け、大原野から猪ノ倉峠を越えて「羽束」の木器(こうづき)を過ぎて「羽束の地」の「槻瀬」宿泊で整理しました。「木器」・「槻瀬」付近一帯を含んだ広域地名が「羽束」(はつか)と呼ばれる郷のようです(未確認)。有岡宿を夜中に出発していることを含め、位置関係も妥当だと思います。
6/13の「大野原」は相野に出たのであれば途中に「大原」の地があります。但し、一見するような地ではないようです。篠山付近に大原の地が在るのかも知れませんが確認できません。「駒くら」の地は確認できますが、その先の「篠山」の地名記載が無いのです。九州を含めた全区間の内、この区間のみ後味が悪いのです。案外、「本書原本」には「大野原」が6/12と6/13両方に記載されていたため、6/12分を削除した可能性もあり、或いは6/13に転写筆記間違いをした可能性もあります。それにしても「大原野」と「大野原」の違いは?ここまで追及するのは邪推か?当方は素人なのでこんな推理も自由自在です。このブログは「ネイチャー」ではありません。その辺を理解したうえで読んでください。今回の当方のワープロ打ちでも、日付の違う隣の行部分のゴロの似た一部を打ち込んだりしたミスが三、四箇所もあった位です。それでも意味が通じるのは以外でした。
<丹波篠山に入る>
・6/13 「一
十三日、朝立行に、高平関とて二所ニ有、其折しも、この前に山たち有とて所の者走行を、我が身の上かとおそろしく、然共何事なく行 て、丹波の内大野原一見し、其より名ハ駒くら越なれハ、わらちさしはきかちより過行けハ、は(端?)城とも有、さてあけの(明野)といへる市場有、通ちやうの田村豫三次郎といへるものゝ所へ一宿、」
(注)高平関:槻瀬の北方に高平の地がある。高平を北上し、途中に川渡りと本道から真西に道なき道様の山越えバイパスがある。これを西に抜けると「駒鞍越」に向かう本道に合流する。
(注:山賊がでるので地元の者が駆け足で通りすぎる場所を・・・。上記の山道付近か?
(注)駒鞍:丹波口多紀郡駒鞍郷。近世:小枕・旧丹南町大字小枕。「駒鞍越」は国境三国ケ岳西山麓の峠。
(注)は城:主城に対する端城か?。吹城(ふきじょう:東城山)のことか?
篠山盆地東南部に波多野氏の主城八上城(高城山)がある。丹波篠山付近は信長の命を受けた明智光秀が天正3年から7年にかけて攻略。丹波篠山城は関ケ原の戦いののち慶長14年(1609)徳川家康が八上城に入った松平康重に命じ盆地中心部の低丘陵「笹山」に築城し八上城を廃城(wiki引用)。(wiki)
*この地が篠山とよばれるのは丹波篠山城築城のときから。
(注)丹波の内大野原一見:国境「三国ケ岳」駒鞍越高所から広大な篠山盆地(大きく広い野原?)を眺めたか。ここは「大野原」の地名?不明と「篠山」の記載が無いため、前日12日の「大原野」未記載と関連し四苦八苦した区間です。大野原(篠山の大盆地・野原)の解釈は篠山市文化財課U氏に照会した結果の結論です。貴重な教唆を頂き目の前が明るくなりました。国境駒鞍越から大盆地(大野原)が一望できるそうです。早速3Dイメージ図を作成してみると納得できました。添付の地図は大野原全体像を表示するため、かなりの高所から眺めた格好にしています。

三国ケ岳・駒鞍越からみた大野原(篠山大盆地)3Dイメージ
<但馬に入る>
・6/14 「一
十四日、辰刻(8時頃)ニ打立、おひれ(追入)といへる村にて加治木(薩摩の加治木)衆山本坊ニ合候、軈而(やがて)はこや(?不詳。はたごか小屋・端屋?)に着(
、)しためし、其より かね(*金)山を越候て、ひかミ(*氷上)の郡の内猪の山とて城有、かいた・あした(*芦田)の城有、さて小倉(朝来郡:旧青垣町小倉)の町茶屋の彦三郎といへるものゝ所江一宿、」
(注)金山越:金山(かねやま)の鐘ケ坂越え。
(注)はこや:小さなはたごか粗末な茶屋。端屋か箱屋か?
・「追入」は金山越手前の宿。「はこや」は「追入」の小さく粗末な宿屋か茶屋の付属小屋で下ごしらえしたと解釈したほうが、意味が通じる。これもU氏の教唆。箱屋は厠の意もあり、そこで道草をくったと解釈できなくは無いが、これは少しオーバーな解釈になりそうだ。全区間を通じて途中のトイレ休憩の記載は無い。
・6/15 「一 十五日、打立、三里坂といへるを越え、但馬の内大田垣の城有、其よりやなせ(*梁瀬)(朝来郡)の市場を通、垣屋とのゝ持たかた(*高田)の町(和田山町高田)にやすらひ出行に、一日坂といへるを越、八木殿の町に着、善左衛門といへるものゝ所ニ一宿」
(注)大田垣の城(竹田城):太田垣氏:山名氏によって但馬守護代。天正3年(1575)信長による羽柴秀吉中国計略により没落。同6~8年羽柴秀長一時居城とするが、石垣普請は天正8年秀吉家臣桑山氏のとき、のち赤松氏のとき完成。
(注)高田の町:朝来郡高田(朝来市和田山町高田)
(注)八木殿の町:養父郡八木(養父市八鹿町八木)・八木城主八木豊信は但馬守護山名祐豊の重臣であったが、毛利氏の影響が増すと毛利氏に属す。天正7年(1579)頃には織田信長の命により但馬国に侵攻してきた羽柴秀吉に属し、天正8年の第一次鳥取城攻防では因幡の若桜鬼ケ城を任され因幡智頭領2万石を領有した。毛利氏の再進出により鳥取城主が山名豊国から吉川経家に変わると抗し切れず若桜鬼ケ城を捨て消息不明となる。天正年間に島津氏を頼り、島津家久の「右筆(秘書)」となった記録があるが、同名の別人の可能性もある。(wiki)
*サイト:鳥取県史だより・第31回「但馬国人八木豊信の教養と島津家久」(要検索)によれば、島津家久の「右筆(ゆうひつ)」となったことは間違いないようである。京都滞在、5/13家久の八木豊信舎弟との出会いと意気投合・追酒、6/15八木宿泊は、八木氏にとって運命的な出会いとなったようである。
<氷ノ山越から因幡に入る>
・6/16 「一
十六日、ひほの山(氷ノ山)とて大山を越、つくハね(舂米:つくよね)といへる村なれと、しつ(餞)のまかなひもなく、其邊の佛にかり枕、」
(注)氷ノ山(ヒノセン):中国地方「大山」に次ぐ高峰。北側赤倉山との間に「氷ノ山越」があり、峠を越えると因幡八東郡のうち「つく米」(舂米:つくよね)という閑集落がある。
・氷ノ山:1509.8M ・赤倉山:1332M ・氷ノ山越:1234M
(注)当初、氷ノ山の南側を迂回し若桜街道に出たと想定していたのですが、どうでも氷ノ山越(1234M)をしているようです。「ひほの山とて大山を越、」と簡潔に記しているがかなりの高低差です。往復路最大の難所だったでしょう。

<因幡から伯耆大山寺・出雲杵築大社経由、石見銀山に向かう>
若桜で山中鹿之助の若桜鬼ケ城乗っ取り事件に遭遇。温泉津では出雲阿国の類らしき能とも神舞とも分からぬ出雲歌による不思議な舞に歴史的出会いをします。
天正三年(1575)六月
・6/17 「一
十七日、若狭(若桜:八東郡)の町を通けるに、其城(若桜鬼ケ城)の有主(当主)、二三日前に山中鹿助謀略を以生取、若狭の城を知行し、さし籠らるゝ人數に行合候、其より行てたち井(*丹比)殿の城(私都城・市場城)有、亦半廻の城とて有、軈而石井大膳介峯入ニとて、山法師支度にて出たゝるゝ所に行合、彼人亦跡のことく歸り、舟岡(八上郡八頭町船岡)といへる町ニて、夜終いにしへの事共語、宿助左衛門、」
(注)若桜鬼ケ城:永禄12年(1569)5月尼子勝久・山中幸盛(鹿之助)が尼子氏再興を目指して挙兵、若桜方面より因幡へ侵攻。矢部氏はこの時、尼子氏に与して鬼ケ城へ一部、尼子軍を駐屯させ、同年11月には毛利信濃守(因幡毛利)らと鳥取城の武田高信を攻撃した。天正年間になり安藝毛利氏吉川元春が因幡に進出すると矢部氏はこれに従った。天正2年(1574)毛利氏が因幡から退くと尼子氏は再び侵入、同3年(1575)6月、播磨国に近い若桜を目につけた山中幸盛は謀略を以って城主の矢部氏を生け捕り、落城させた。この時をもって矢部氏は滅亡したといわれている。(wiki引用)
*この乗っ取り事件直後に鹿之助の部下に道で出会ったわけで生々しい記載です。
(注)たち井殿(*丹比:たんぴ)殿の城:丹比(たんぴ)孫之丞:私都城(きさいちじょう)・市場城(因幡八東郡私都郷市場・鳥取市郡家町市場):天正9年(1581)の「第二次鳥取城の戦い」で羽柴秀吉に破れ、敗走中に一揆勢に殺害される。私都郷国人領主因幡毛利氏配下か(詳細未確認)。
・6/18 「一
十八日、朝大膳亮(介?)へ暇乞して行に、右の方に因幡山とて松山有、その前ニとつとり山とて城(鳥取城)有、亦左の方に遠くひよとり尾とて城(鵯尾城)有、さて吉岡の城(丸山城・吉岡氏居城)、同其町を通るに出湯(吉岡温泉)有、各ゝ入、其より行てけた(*家多)の郡下坂本の小庵に一宿、」
(注)鳥取城:天正元年(1573)山名豊国は天神山城から鳥取城へ居城を移し、天正年間(1573~1592)始めに吉川元春軍勢が因幡に進出すると豊国は毛利に降った。天正8年9月(1580)羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めでは若桜鬼ケ城、鹿野を攻め落として取り囲むと豊国は織田信長に降伏・臣従するが、同月毛利氏の再進出に再度降伏する。天正9年4月織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下に出奔、追放される。残存の山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、羽柴秀吉再度鳥取城を攻撃、7月兵糧攻めで包囲、10月城番吉川経家(石見吉川氏)自決開城。(wiki引用)
石見吉川氏は、江戸期岩国藩吉川氏の家老を務める。
(注)鵯尾城:因幡山名氏家臣武田高信(因幡武田氏)居城。守護山名氏に反抗し、天正元年以後山名氏・再興尼子軍に包囲され、鳥取城から退去し、失意のうちに鵯尾城に戻ったが天正3年(1575)3月山名豊国によって追放され、高信は但馬国の塩治氏を頼るが、毛利氏からも見放され、天正4年(1576)大義寺にて謀殺された。武田氏追放後の鵯尾城は天正3年5月毛利武將、山田重直が在番していたことが確認されているが、まもなく廃城。(wiki引用)
(注)丸山城:(鳥取市六反田)・因幡山名氏配下因幡国人吉岡春斎居城。天正元年頃、低丘陵のため東部の箕上山城(吉岡温泉町)に居城を移すが、息子の吉岡將監のとき湖山池畔の坊己尾城を本城とする。吉川元春因幡進出により毛利方となるが、天正九年(1581)七月羽柴秀吉鳥取城攻めのとき勇猛奮戦するも落城。これにより吉岡氏は滅び一時期諸国流浪ののち郷里に帰り農民になったという。

<青谷から船で伯耆大塚に入り、大山寺へ向かう>
・6/19 「一
十九日、夜中に打立候而、あをや(*青谷)(因幡家多郡)之町ヲ通、水無瀬(青谷井出)といへる所より舟にて、伯耆の内大つか(大塚:伯耆汗入郡)といへる所に船つけ、その町又九郎といへるものゝ所江一宿、」
(注)文面通り読めば、青谷を過ぎて勝部川を渡った少し先に、青谷町井出水無瀬の浜がある。但し、船出するのであればわざわざ勝部川を渡り井出水無瀬まで行く必要はなく、青谷の勝部川河口から舟出した方が楽です。水無瀬は無人の砂浜です。勝部川を過ぎてから船に変更したのかもしれません。青谷は近世まで青屋と称す。
(注)大つか:伯耆汗入郡(アセリごおり・ぐん)旧名和町大塚(現大山町):阿弥陀川の下流右岸に位置し日本海に面する(「角川地名大辞典」)。 左岸は福尾で福尾城址がある。
(注)ここは、当初地図上で湊らしき場所を探していたため「大つか」の地が不明で、伯耆八橋郡蓬束の湊に上陸し、八橋(やばせ)氏居城の八橋を過ぎて「はた」(羽田井)から一息坂峠を越えて大山寺へ向かったのではないかと誤認しました。このルートは、青谷から蓬束までの海行区間が短く中途半端で、何故この短い区間を海行したのか疑念があり、一息坂峠経由の難路についても疑念があったため「大つか」を再度調査し、最終的に「角川辞典」のお世話になりました。但し、「大塚」は「青谷の水無瀬」と同じく湊ではなく浜で、厳密には「大雀(おおすずめ)の浜」で、「大塚」は少し内陸部になります。また、日本海に面した当時の山陰海岸砂浜が、少なくとも中型船以上の船が着船できたかどうかも不明です。浜まで小船で何回も往復するのも不自然で、結構波も高いのです。この時期、因幡と伯耆の辺鄙な人家も無い浜に桟橋を設けていたとは考えにくいのですが...。

・6/20 「一
廿日、朝立、はやなせといへる城(福尾城か:不詳)有、其町(福尾?)を過行に、藝州衆浅猪那信濃といへるに行合候へハ、わらち銭各ゝへとらせられ候、我ゝも得(え)させられ候、其よりはた(畑?不詳)といへる所を打過しかとも、虫氣出合候て、亦跡のことく歸り、九郎左衛門といへるものゝ所江一宿、」
(注)はやなせといへる城:福尾城の意か?詳細不詳だが「大つか」に上陸したのなら阿弥陀川左岸の福尾城しかない。後述の「富長」に上陸したのなら「富長城」があります。
(注)はたといへる所:大塚から阿弥陀川沿いに大山に向かったのであれば、途中はた(畑)という地があるが、現在の参詣道から東に1KMも離れている。この川沿いを上がったとは考えにくいのだが。もしこの川沿いルートが正解ならば、畑から右折すれば、鈑戸(たたらど)で参詣道に合流する。
追記(2014.09.24)
ここは、当初「大塚」から阿弥陀川沿いに高田か坊領付近に出たと解釈していたのですが、最終的に「大山町」に確認してみると、御来屋(みくりや)か富長の町に船を付け宿泊し、翌日に大塚の手前に位置する「富長」から阿弥陀川に沿って「高田」経由「畑」に向かったと解釈してもおかしくないようです。「富長」から「高田」へ向けてのルートが当時の参詣道だったそうです。大山口から「中高」付近にかけての直線道路は大正時代に開通した新道です。富長には「富長城」がありますが、室町時代大永4年(1524)に廃城になったと推測されています(現、富長神社境内)。
*家久君の日記を素直に解釈すれば、因幡青谷を過ぎて水無瀬の浜を船出し、伯耆大塚の阿弥陀川河口大雀の浜に船を付け、大塚に一宿。翌日福尾城を右に見て阿弥陀川沿いを畑に向けて進んだことになります。この区間は少し邪推し過ぎたかもしれません。串木野を出立してから此処まで、日記記載の地名は非常に緻密で正確なのですから。一応、満干潮時を利用すれば着船上陸可能と判断しました。当時の阿弥陀川河口がどの程度の大きさであったかは推測することも不可ですが、因幡・石見の外海に面した砂浜海岸に流れ込む中小の河川河口は砂の多い形態が多く、周囲に砂洲も多く船が遡上するような河口は少ないと思います。やはり、砂浜に着船したのかもしれません。但し、外海に面した山陰の海岸は波が高いですぞ。
(注)草鞋銭の足しにしてくれと、銭をもらっている。最早巡礼服もボロボロ、汚く貧しい疲れ切った一行に見えたか?
(注)腹痛か?人家のある場所まで戻っているようだ。坊領付近に宿泊か。詳細不詳。
(注)日本海側から大山寺へ向けては延々と続く上り坂。40年前に大山口から山陽側蒜山に向けて車で抜けましたが、大山寺付近でオーバーヒートが心配でエンジンをかけてファンを回したまま小休止を実施しました。今の車はそんな心配はありません。
・6/21 「一
廿一日、打立、未刻(14時頃)に文光坊といへるに立寄やすらひ、軈而大仙(*山)(大山寺・大神山神社奥宮)に參、其より行て緒(*尾)高といへる城有、其町(尾高:会見・相見郡)を打過、よなこ(*米子)(:会見・相見郡)といへる町に着、豫三郎といへるものゝ所に一宿、」
(注)尾高城:西伯耆東西の交通路の軍事上の中心。代々行松氏の居城であったが、出雲月山富田城主尼子経久伯耆侵攻、以後尼子氏、毛利氏争乱の舞台となる。尼子氏回復戦で山中鹿之助一時期この城に囚われ、厠から脱出する逸話は有名。江戸初期の米子築城により廃城。
<中海・宍道湖を水行、出雲杵築の大社に参詣>
出雲田儀で、石見銀山銅山主の屋敷に宿泊。
・6/22 「一
廿二日、明かたに船いたし(中海を)行に、出雲の内馬かた(*潟)(出雲意宇郡:おうのこおり・ぐん)といへる村にて関とられ行に、枕木山とて弁慶の住し所有、其下に大こん(*根)嶋とて有、猶行てしらかた(白潟:意宇郡)といへる町に舟着、小三郎といへるものゝ所に立よりめしたへ、亦舟押し行に、右に檜之瀬とて城有(不詳:未確認)、其より水海(宍道湖)の末に蓮一町はかり咲亂たる中を、さなから御法の舟にやとおほえ漕通、平田(楯縫郡:たてぬいごおり)といへる町に着、九郎左衛門といへるものゝ所に宿、拾郎三郎よりうり、亦玄蕃より酒あつかり候、」
(注)幾多の諸神仏御加護御礼に残すは杵築の大社のみ、この最後の参詣を目前にして、家久は崇高な独特の境地に達しているようです。
・6/23 「一
廿三日、打立行て、きつき(*杵築)の大社に參、それより行 て大渡(神門川)といへるわたり賃とられ、さて行て崎田(神門郡田儀)といへる町の清左(右)衛門といへるものゝ所ニ一宿、下總酒もてあそひ候、」
(注)杵築の大社:キツキ・キズキのオオヤシロ ・明治4年出雲大社
(注)田儀の清右衛門 : 田儀村(出雲神門郡田儀)の三島清右衛門は、石見銀山の銅山主。
ここの「崎田」と「清左衛門」は転写筆記誤りの典型的な例では?あるいは当初から「右」を「左」に間違えたかもしれない。
<石見に入り石見銀山経由、温泉津・浜田に向かう>
温泉津で、出雲阿国の類らしき能とも神舞とも分からぬ舞を見物。
・6/24 「一
廿四日、しまつ(島津)屋の関とてありしかとも、亭主の書状を以安く通候、さてはね(*羽根)(安濃郡)の町を打過、梁瀬(柳瀬)のしゅく、尚行て大田(安濃郡)といへる村、門脇對馬といへる人の所に立寄徊らひ、さて行 て石見のかな山清左衛門といへる者の所ニ一宿、夜入加治木衆(薩摩・加治木)早崎助十郎・久保田弥三左衛門酒持來候、亦一関うりもてはやし候、」
(注)しまつ屋の関:石見安濃郡朝山島津。清左(右)衛門の書状で安く通れた。
(注)石見金山(邇摩郡)の清左衛門は、石見銀山銅山主三島清右衛門と同一人と思われるが、確証できない。金山の邸宅跡は確認不能・不明。大森はのちの地名。
・6/25 「一 廿五日、打立行に、肝付新介ニ行逢候、加治木衆三十人ほと同行、さて西田(邇摩郡)の町を打過湯津(温泉津・ゆのつ:邇摩郡)に着、其より小濱(温泉津の内小濱の湊)といへる宮の拝殿にやすらふところに、伊集院に居る大炊左衛門酒瓜持参、さて湯に入候へは、喜入殿(薩摩重臣)の舟に乘たる衆・秋目船の衆・東郷の舟衆・しらハ衆、各すゝを持來候、其より小濱のことくまかり、出雲之衆、男女わらハへ(童部)あつまりて能ともなし、神まひともわかぬおひいれ、出雲の歌とて舞うたひたる見物し、其より小濱(温泉津・小浜の湊)のはたこやにつき、亦湯乃津のことく歸り候へハ、船頭各ゝ我ゝ船に乘候へと申間、寔いせひを仕候、夜入候て、関東の僧とて見參有へき由候間、斟酌候へ共、薩广にて聞給しとてすゝを持せ、与風來られ候間、無了簡參會、亦亭主ゟもすゝを得させ候、亭主小四郎、」
(注)肝付新介:大隅加治木の島津氏部下か舸子(水手)衆の主人と思われるが不詳。肝付姓は大隅に多く見られる。大隅肝属郡肝付氏は、日向伊東氏と同盟し島津氏と争い圧倒していたが、次第に衰退し天正2年に島津氏に臣従、天正8年12月には領地を没収され家臣となる。庶流は早くから島津氏に仕え重用される。薩摩藩士小松(禰寝氏)帯刀はこの出身。これらに関係する者か。
「温泉津から石見金山へ向かう肝付新介が率いる加治木衆30人程に行き逢った。」の意か。
(注)石見銀山から西に向けて沖泊街道を温泉津へ向う。途中西田の地名が出てくる。
(注)当時の温泉津は石見銀山積出し港で栄える。ここに記された加治木・喜入・秋目等は全て薩摩・大隅の水手(かこ:舸子
・船子)衆。これらは薩摩半島東西沿岸に分布する小村。
*米の取れない地で、温泉津で銀を積み平戸で唐船と交易をしたり、その他の地で交易を活発にしていた。まるで薩摩に帰ったような騒ぎである。家久は当然彼らを激励したであろうし、舸子たちも殿様を異国で迎え感激したであろう。
(注)「おひいれ」:おびれ・「尾鰭」か?:この解釈が正解なら、転じて派手さ、大げさゝをあらわす。能や神舞とも違う特異な派手な服装・大げさな仕草の舞の意か?まさか、わらばへが両足・両股を大きく広げ顎をシャクリ、大見得を切ったか...???
出雲歌か出雲弁を聞いたのなら、何を喋ったのかさっぱり分からなかったはず。
(注)・出雲阿国が出雲大社巫女として、大社勧進のため諸国を回り、西洞院時慶の日記「時慶卿記」に「出雲ややこ踊り」と「クニという踊り子」として登場するのは慶長5年(1600)。
・出雲阿国として正式に登場するのは慶長8年(1603)のことで、京都の天井蓆の粗末な小屋で、頭を若髷にした男装で、女装の男性とともに特別な踊りとして京都人の特別な人気(傾く踊り
:カタブク踊り→ 歌舞伎の語源)を得る。
(注)40年前になりますが、社用で一週間温泉津に初めて宿泊しましたが、国道9号線から一山越していきなり温泉津の町並みを目にしたとき、全員車の中で「ウォ!」と声を上げました。谷が迫る狭い道の両側に、色あせた木肌の旅館風の古い家屋がぎっしり海岸まで続いているのです。時間的に遅かった事もあり、あちこちから濛々と湯煙が立ち上がり薄暗い谷間を埋めている様がひなびた風情のある温泉地のイメージとは違い、異様に見えたことを記憶しています。
・6/26 「一
廿六日、順風なくて留ぬ処に、入來の別當権左衛門・太平寺領の者善左衛門すゝを持參、さて出湯に入歸候へは、亭主會尺、酒ゑんさま 也、さて俄に追手の風有し間、犬(戌)の刻(20時頃)に出船、さて三そうの船頭舟衆に酒たへさせ候、」
<浜田入港>
浜田も、まるで薩摩の地のようです。ここで登場の舸子(水手)衆も全て薩摩半島の舸子衆です。13日間も船待ちの間、酒、酒、酒漬け浸りです。
・6/27 「一
廿七日、未刻(14時頃)に濱田といへる所に着、宿大賀次郎左衛門、さて京泊の船頭尾張樽持來り候、亦千兵衛樽、」
(注)浜田(那賀郡)は中世戦国時代対朝鮮交易の中心的港湾都市として栄える。家久宿泊の大賀氏は三隅を拠点とする有力商人である大賀氏と思われる。浜田の宿泊地は松原湾の浜田川河口の津(湊)であったか?
・6/28 「一
廿八日、舟待、然者加治木衆木佐野木大炊介樽・食籠持來り候、亦京泊り衆・秋目・とまり(*泊)・鹿兒嶋衆杯來て亂舞仕候、さて鹿兒嶋・伊集院衆ゟ食調、晩にはしらハ(*白羽)市介食調儀候、」
・6/29 「一
廿九日、秋目の船頭將監・食籠持來り、亦坊(坊津)の衆にて藤十郎といへる者すゝ、晩には東郷舟蔵之別當右近兵衛めし調、さて濱田の町一見、」
(注)東郷衆ではなく、舟蔵之別當に注目。これ以上の注釈が出来ないのが残念。
・7/1 「七月朔日、鹿兒嶋の町衆膳介食調候、」
・7/2 「一 二日、秋目衆藏照神衹介樽持來り、晩にハ大炊左衛門食をとゝのへ、さて喜入船の衆に酒たへさせ候、」
・7/3 「一
三日、しらは(白波)の衆膳左衛門樽・さかな持來り候、」
・7/4 「一 四日、入木の権左衛門樽・食籠持來、晩にハ鹿兒島町衆左近めしとゝのへ候、」
・7/5 「一 五日、左近兵衛魚なと持來候、」
・7/6 「一 六日、市介さうめん・熟瓜持來候、」
・7/7 「一 七日、亭主の親元起といへる禪門すゝ持参、其より船に酒もたせ、船頭にたへさせ候、各ゝ酔に成て舞遊、其日をおくり、晩にかこしま町之者中村次郎四郎樽・肴なと、」
・7/8 「一 八日、秋目の船頭魚なと持來候、」
・7/9 「一 九日、濱田の風呂へ船にて行、かへりに京泊りの尾張といへるもの、せとゝいへる所に船つなきしか、此船に乗へきよし頻(しきり)に申間乗移、酒ゑんさま にて、亦とまりのことく歸候、」
(注)・せと:瀬戸ケ島。風呂の帰りに瀬戸ケ島に船をつなぎ、・・・。
(注)ここは、大賀氏の屋敷あるいは付近に風呂が無かったわけではなく、内海(河口)の宿泊地から外海に面した現在の東岸浜田港、西岸長浜の津(湊・湾内)を見学し、何処かで風呂に入り、帰りに瀬戸ケ島に船をつないだと解釈した方がいいのでは?当時の浜田が外海側に面した西部の湾口を含み広域的に港湾都市として活況であったことが窺える。温泉津が単に銀山の積出し港として栄えたのとは趣が違い、規模が違うようである。多数の薩摩水手衆や樽・すゝに目を奪われること無く、中世浜田の活況にロマンを抱くべき。この頃の石見は尼子氏を滅ぼした毛利氏領国。(要検索:「中世の港町・浜田」:浜田市教委・PDF文献)
<浜田出港・肥前平戸経由薩摩へ>
いよいよ、帰国です。

・7/10 「一
十日、申刻(16時頃)に出船、」
・7/11 「一
十一日、船中ひるより風強なり、夜中ゟ猶大風にて、舟子ともまて迷惑し、帆をさけ波にまかせ行候、」
(注)家久君伊勢道中最大の危機であったか。ここで吹いた大風も神風であったようです。
・7/12 「一
十二日、巳刻(10時頃)之末ニからふして平戸(肥前松浦郡)に着候へハ、京泊り(薩摩郡)のもの神六すゝ持來候、亦善左衛門樽、」
(注)博多に寄る予定が平戸に流れ着いたか?これは少し邪推が過ぎるよう。
<平戸で、松浦氏の歓待をうけ、南蛮から大友宗麟へ贈られる虎の子を見物>
・7/13 「一
十三日、唐船に乗見物仕候、なんはん(*南蛮)より豊後殿(大友宗麟)へ進物とて虎の子四疋、其れをめつらしく見歸候へハ、加治木衆彦太郎といへる者樽・食籠持來候、亦肥州(松浦隆信)より樽二ツ肴取合、平松七郎左衛門といへる者使者、」
(注)肥州殿:松浦隆信(道可)・肥前平戸松浦党主。ポルトガルとの交易を盛んにし鉄砲・大砲、財力を蓄え戦国大名として飛躍し、のち秀吉「九州征伐」に従い平戸藩へと続く礎を築く。家臣のポルトガル商人惨殺「宮ノ前事件」に誠意を見せなかった事から、ポルトガル商人は大村純忠の「横瀬浦」を基地とするようになる。曽孫の第2代平戸藩主隆信(宗陽)と区別するため「隆信(道可)」と呼称される。(wiki等引用)
・7/14 「一
十四日、あきめ(秋目)の勘介樽、亦とまり(泊)の又十郎樽持來候、また平戸之薩广とひすゝ持來候、さて町寺家 なと一見候へハ、普門寺といへる寺にて肥州出會、頻にと候間、堅く斟酌仕候得共、猶來るへく由申され候間、無余儀まかり候て、肥州・同拾弟兩人へも見参仕歸候へハ、軈而肥州礼に來られ候、其よりとひの宿にて酒寄合、肥州より太刀あつかり候、」
・7/15 「一
十五日、朝食市介調候、さて京泊の五郎兵衛といへる者樽持來候、亦大膳亮といへる者樽、其後類船三艘之船頭樽持來候、亦阿久根之神左衛門樽持來候、又肥州(松浦隆信)より一部次郎左衛門といへるを使者ニ而十五日の祝言、さて四さうの船とう船衆なとへ酒たへさせ候、さて田平の良かい坊といへる山法師の子、千代鬼といへる兒舟にのられ候て酒ゑんさま 、皆酔臥候、」
(注)田平(たびら):平戸市田平・肥前松浦郡田平
<山口の舞を見る>
・7/16 「一
十六日、入木の別當太郎左衛門すゝ持來候、晩にハ普門寺にて肥州より會尺ある處に、あまた庭「*本ノママ」來候、亦山口のまひ三人來候、其より肥州之館へ同心にて、子息なとへも見参、一段之儀ニ候、」
(注)山口の舞:平戸と山口の接点となれば、切支丹の地が思い浮かぶ。両者の文化的経済的交流が盛んで、この地には珍しい小京都山口の上方風の舞を松浦氏が披露させたのかもしれない。
平戸と山口の接点はこれ以外に大内氏勘合貿易が思い浮かぶ。ここは博多ではないが直接・間接的に平戸も関係し、天文20年(1551)大内氏滅亡後も小京都山口から(博多経由)流れてきた上方風の舞いであったかもしれない。大内氏小京都山口の文化(即ち京文化)についても博多や平戸の地に広域的に伝播していたのではあるまいか...?仮に家久君が博多に停泊していたら、そこでも「小京都山口の舞」を見たかもしれない。
「舞人(まひびと)」は16世紀初頭の京都を主体とする一部女性を含む職人「七十一番職人歌合」に登場するが、この「七十番右・舞人」は雅楽を舞う特別の舞手のようで、宴席や見世物等の世俗の席で舞うものとは違うようだ。七十番左に「楽人(がくじん)」
(注)別に、山口特有の舞として「鷺の舞」があるが、これはあくまで八坂神社祇園会奉納の舞。「鷺舞」奉納は津和野の弥栄神社が観光的に広く知られているが、これは天文11年(1542)、ときの津和野城主吉見正頼が大内義興の息女を迎え入れたことで彼女の疫病除けを祈念して始められたもので、山口祇園会を経て津和野弥栄神社に伝習された奉納舞。山口「鷺の舞」は室町時代京文化に造詣が深かった大内弘世が応安2年(1369)京都から山口に八坂神社(祇園社)を勧請し、のち1540年代ごろに伝習されたものとおもわれ、山口市竪小路の八坂神社祇園祭で奉納されている。山口県指定無形民俗文化財。(wiki等)
*この「山口鷺の舞」の可能性も捨てきれない。「亦山口のまひ三人來候、」と別に特記しているのである。「山口鷺の舞」の主な舞い動作をする舞人は雌雄の鷺2名と猟師2名で、極めて簡素な舞いである。猟師の動作はほとんど無く、必要としないほどである。
(参考:鷺流狂言):「鷺の舞」とは無関係であるが、「狂言」は大蔵流・和泉流・鷺流の三流派に分かれる。鷺流は徳川家康お抱え狂言師鷺仁右衛門宗玄が一代で築き上げた流派であるが、宗玄は、もとは山城国猿楽系長命座のち宝生座に属していた。鷺流は明治になって廃れるが、三大鷺流狂言として、山口・佐渡・佐賀に伝習保存されている。(wiki等)
(注)山口「鷺の舞」・津和野「鷺舞」・「鷺流狂言(山口)」については、YouTubeで検索、ご鑑賞を。
・7/17 「一
十七日、京泊の土佐といへる者すゝ持來候、亦とまりの民部樽種ゝ取合持來候、其後亭主すゝ持來候、」
-- もう、いい加減にしてくれ!家久殿! 樽とすゝのコピペばかりで疲れる!
--
<いよいよ千秋万歳、拙者まだまだ酒飲むぞ!>
・7/18 「一
十八日、午尅(12時頃)ニ出船候ヘハ、肥州舟にておくり候に、拙者あなたの船に乗移、酒ゑんさま にて、さていとまこひ仕、本船にのり候へは、船へ樽・食籠種ゝの肴おくられ候、せとのとゝいへる所迄肥州おくられ候、其より九十九嶋を左の方に見て打過、右方におたう(*五島)・福田・礼(*長)崎夜中ニ打過候、」
(注)せとのと:瀬戸の渡?・平戸瀬戸の平戸南竜崎と田平の間、現平戸大橋付近の瀬戸か?
・7/19 「一
十九日、かは(*樺)嶋(高来郡)にて夜をあかし、左方に志岐・天草をミて過行に、大炊左衛門かゆを調候、さて右方ニこしき(*甑)の嶋、亦見るに、左ニハ阿久根、さて京泊に酉之尅(18時頃)に着、其より小船にてたかゑ(*高江)ニ押渡、山田信介(*有信)ニ一宿、」
・7/20 「一
廿日、夜中に打立、隈城にて夜をあかし、清藤土佐介の所へ立いり候へは、城衆中各ゝ酒ゑん、千秋万歳にて、其ゟ串木野ニ着、中途ニおひて祝の人數かすをしらす、殊更すゝの數ゝ也、其より湛枝(*ママ)の薬師に參、さてせかいへ立寄、いハひ種ゝの儀、其より御諏方へ參候て宿に着候へハ、所の僧俗男女、東郷・中郷をかけて往來の人ゝめてたし とそ、かきとゝむる者也、」
(「中務大輔家久公御上京日記」ニヨリ欠脱箇所ヲ補入セリ)
「家久君上京日記」 ・ 完

(想)島津家久串木野凱旋之図:粉河寺参詣曼荼羅図・洛中洛外図屏風(舟木本)・その他を参考に描画
このあと、天正6年(1578)11月大友宗麟日向侵攻、家久日向高城に入り、義久・義弘ら島津四兄弟は「高城川の戦い」で大友宗麟七万の大軍を撃破。敗走する大友軍を耳川まで追撃する。日向無鹿(musica)に着陣の宗麟はこの報に慌て、連れてきた宣教師らを放置したまま豊後に逃げ帰る。これにより大友氏衰退となる。
天正12年(1584)3月有馬氏支援と九州制圧を目指し、島原半島「沖田畷の戦い」で家久は得意の「釣り野伏せ」戦法で龍造寺軍を殲滅、敵の総大将龍造寺隆信、重臣多数を討ち取る。この功により日向佐土原(さどわら)城代となり日向国を差配する。
島津氏は豊前・筑前を除くほぼ九州全土を制圧するが、大友義統・龍造寺氏らは豊臣秀吉を頼り、天正14年(1586)12月九州に上陸した土佐長宗我部元親・信親父子・讃岐仙石秀久・十河存保・大友義統ら四国豊臣連合軍6000余を家久は「戸次川(へつぎがわ)の戦い」で撃破。家久は破れて退却の船待ちをしていた長宗我部勢に糧食を贈り、戦死した信親の遺体や遺品を届けている。この戦いで、島津氏は大友勢と豊臣四国勢を差別化すると共に、豊臣秀吉島津氏征伐の結果を予測していたようで、のちに領頭島津義久は降伏の過程で豊臣秀長や石田三成に対し、「京都に対し緩疎無きように意を払っていたにもかかわらず、度々島津領国を脅かした大友義統と秀吉の命令で長宗我部元親らが一致したために、一戦に及び勝利したこと、この件をとりなすよう」依頼している。豊臣秀吉本隊の島津征伐では日向高城を攻める豊臣秀長・毛利勢らにいち早く降伏、島津義久・義弘らが本知安堵を条件に降伏する布石となる(義弘は最後まで主戦を主張)。
天正15年(1587)5月8日、剃髪した島津義久は薩摩国川内(せんだい)の秀吉本陣泰平寺において秀吉に無条件降伏し臣従を誓い本知二州と日向の大部分を安堵される。このあと、家久は天正15年(1587)6月5日佐土原城で急死する。享年41。
急死と死亡時期のため毒殺説もあるが、豊臣秀長は5月14日には家久が佐土原城で病中であることを承知しており、病中の家久を同道して鹿児島へ向かう。5月27日には秀長は家久へ日向佐土原城及び本知安堵を取り成したことを通知しており(「旧記雑録後編」)、豊臣・島津双方に毒殺意義がないことから、病死が正解のようである。彼は島津家安泰をほぼ確認した上で他界したことになる。早世が惜しまれる。
「関ケ原の戦い」における島津義弘退却において、殿軍を務めて壮絶な死を遂げる島津豊久は家久の子である。
明治維新回天主導の薩州島津氏へと続く家久君の偉業を称え、ここにかきとゝむる者也、
徒然草独歩

------------- あとがき -------------
・ルート図は「白地図 KenMap」Ver.8.4により作図。
・五畿七道のうち国郡名・郡域はサイト:「イッシーのホームページ」・(地理データ集)を基に一部wikipedia等による地名検索により中世郡名補完。
・城郭については主にサイト:「城郭放浪記」とwikipedia等を引用。
・地名についてはJLogos等Web地名検索によるほか、山口県・鳥取県・三重県・兵庫県・福岡県・鹿児島県の一部については、「山口県風土誌(五):歴史図書社」・「角川地名大辞典(鳥取県)」・「日本歴史地名大系24(三重県)・29(兵庫県)・36(山口県)・41(福岡県)・47(鹿児島県):平凡社」を参照しましたが、一部について電話照会した市町村(文化財保護課)は下記の通り。
・下関市博物館・丸亀市歴史資料館・川西市・猪名川町・篠山市・朝来市・養父市・兵庫県・鳥取市・出雲市・石見銀山世界遺産センター・京都市歴史資料館・大津市歴史博物館
(追記) 下松市・大山町・三重県・三原市
・史料補完:鹿児島県
なお、全編を通じて東広島市教育委員会Y氏に各種史料提供・教唆を得ました。
今回の作業で、サイト:夢間草廬の「ポリネシア語で解く日本の地名・古典・日本語の解説」に出会いましたが、必見熟読のサイトです。検索してみてください。
(以上)