家久君上京日記
(三)
京都滞在
凡例・「 」は原文のママ ・(* )は原文注釈 ・「・・・」は文中省略
・( )・(?)及び(注・*)は当方で記入の注釈
・傍線は注意事項、あるいは注釈を省略するために、当方で引いています。
【 京都滞在 】
京都滞在部分は、白井忠功氏の<論説>京都の島津家久:『中書家久公御上京日記』を一部参考・引用しました。
家久の京都滞在は約50日に及び、連歌師里村紹巴(じょうは)、子の昌叱(しょうしつ)、弟子の心前らの紹介・案内で、数多くの公家、武家、連歌師と交流し、連歌会、能楽などに足を運び、連日京の文化や伝統にふれその旺盛な好奇心を示しているが、中でも大きな出来事は、京都での最初の見物で、摂津石山本願寺攻撃から帰陣途中の織田信長馬上居眠りの大軍行列を見物したことであろう。また明智光秀に招かれ歓待されたことも記憶に残る大きな出来事だったと思われる。「本能寺の変」の七年前のことである。京都滞在中の宿は、心前の寮を定宿とする。
(注)連歌師里村紹巴(じょうは):里村はのちの名、里村昌休の門人で里村家を継ぎ、昌休の子昌叱(しょうしつ)を養育する。昌叱はのち秀吉の命により宗家となり、法橋に叙せられた。心前は紹巴の弟子。
(注)紹巴の館(文禄年間1592~6に住んでいたのは、上京区下長者町通堀川東入りに、南側紹巴町という)は、家久滞在中は何処であったか不明である。
<京へは大井川を嵯峨野の地から入る。嵐山付近から上流を大井川、下流を桂川と称す。>
天正三年(1575)四月
・4/17 「一
十七日、打立行は、ひたりの方ニ小倉の明神の鳥居有、 行て右方ニしうりう(*勝龍)寺とて、細川兵部太輔(*藤孝)殿の城有、猶行て左方松尾、次に法輪寺、其邊にこかう(*小督)の局の居給ひし所とて、跡はかり有、其次にあらし(*嵐)山、其邊ニとなせ(*戸無瀬)の瀧、大井川を渡り、やかて天龍寺の前にこかう(小督)の石塔とて櫻の木下に有、亦天龍寺の邊に芹川、其うしろに亀山とて有、
行て嵯峨の町にしはしの間中宿仕候て、やかて打立、清瀧川にてはらひなと有て、愛宕山(愛宕神社)へ參、坊中一見、さて長床坊へ一宿、」
(注)・天龍寺は桂川を境に、小倉山の北方の東方に位置する。小督塚は「平家物語」(巻六・小督)の小督局が隠棲したところといわれ、天龍寺門前の桜の木の下に供養塔があったという。
・4/18 「一
十八日、早朝愛宕山より、嵯峨ニ罷下候、大百味之儀輕く成りかたき由ありし間、南覚坊跡に召置、十九日ニ成就。」
(注)*大百味の儀がすぐには出来そうになく、翌日成就するので南覚坊をそこに留め置いた。以後南覚坊は日記に登場しない。このあと紹巴の屋敷に到着した頃に役目を終えているようである。5/27京都出発の伊勢参宮往路では誰か同行「先達」がいたものと思われるが定かでない。「先達」らしき南覚坊の日記登場は、道中で何か問題があったとき、それに何らか彼が係わったときにしか登場しないのである(詳細、伊勢路冒頭後述)。
・4/19 「一
十九日、嵯峨一見、先二尊院、さて二尊院の邊に西行の庵室の跡有、其ゟ(より)東にのゝ宮(*野宮)有、さて歸り候へハ、愛宕(愛宕神社)ゟ御使僧、百味の御礼(おふだ)、御供使僧酒寄合候、其ゟ申刻に嵯峨の尺加(*釈迦)堂の前にて祭礼有、丹波の日吉太夫來り舞臺なとかさり候へ共、大雨にて尺迦堂の内にて能有、」とあり、家久らは愛宕神社で「百味」供養に預かった様である。
*「大百味」、「百味」とは「種々の美味・珍味。また、そのような食物を仏前に供えること。飲食(おんじき)で、「百味供養会」は「観音の宝前に百味の飲食を献供し、観音の慈悲により一年間無事平安な生活をしたお礼を述べる儀式」をいう。これは伊勢参り道中の安全を祈願したものと思われる。
宿坊に戻った家久は、昨日の愛宕神社參詣百味の儀の御礼(おふだ)を持ってきた御使僧に、百味の儀のお礼に馳走を行ったと記しているのである。その後、申刻(16時ごろ)に尺加堂前の祭礼に会い、丹波の日吉大夫の能舞台見物が大雨のため釈迦堂内で催されたと記している。
・4/20 嵯峨の地を去り、広沢池を左に、千代のふる道を右に見て東方に向って進み、途中、「御しよの御願堂」に詣で、北野天神へ參、その夜は下京の仏具屋の家に一宿。
<里村紹巴の屋敷に到着・織田信長馬上居眠り行軍を見物>
・4/21 「一
廿一日、紹巴(*里村)へ立入候、やかて心前の兩(*寮)をかされ宿と定候、さて織田上總(*信長)殿おさか(*大阪)の陣をひかせられ候を、心前同心にて見物、下京ゟ(より)上京のことく馬まハりの衆内烈(列)正(*相)國寺の宿へつかせられ候、さてのほり九本有、黄札藥(*永楽ヵ)といへる銭の形をのほりの紋につけられ候、(さて)上總殿の前にほろの衆廿人、母衣の色ハさたまらす候、是ハ弓箭ニおほへの有衆にゆるさるゝといへり、さて馬まハりの衆百騎計也、引陣ニて候へ共、各ゝ鎧を被着候、亦馬面・馬鎧したるも有、亦虎の皮なとを馬にきせたるも有、亦馬衣・尾袋杯をしたる馬三疋、上總殿乗替とてさゝせられ候、上總殿支度皮衣也、眠候てとをられ候、十七ヶ國の人數にて有之間、何万騎ともはかりかたき由申候、」
(注):石山本願寺攻撃から相國寺へ帰陣中の織田信長の行軍を見学する。「人に聞いたら十七カ国の人数なので、何万騎とも分からない人数だといわれた。」とその行列の規模、壮観に目を見張りながらも、詳しく記録している。
(注)母衣(ほろ):この時代、戦闘においては形骸化しつつあったが、信長親衛隊を表すものとして黒母衣衆・赤母衣衆が有名。「色定まらず」の表現は別色の母衣衆がいたか?(要検索)
・4/22 「一
廿二日、飛鳥井殿にて公家衆御鞠あそハされ候、殊更飛鳥井殿御父子不在なから、御子息鞠一入めをおとろかし候、」
(注)飛鳥井雅教:飛鳥井家は代々蹴鞠師範の家柄。息子は雅敦か。塩飽では「無方鞠」、ここでは「めをおとろかし候」なのである。
・4/23~27は、紹巴に風呂でもてなされたり(当時、訪問先で風呂に入るのは超一級のもてなし)、紹巴、昌叱、心前らと酒の席で紹巴の歌を聞いたり来訪者に会っているが、4/27は、「何やらん、徒に打過候、」とのみ記す。
・4/23 「一
廿三日、紹巴風呂たかせられ候、其より前句つけ仕候、夜入候て、酒にて紹巴・昌叱・心前うたひ候、」
・4/24 「一
廿四日、下總有馬勘解由罷登候、」
・4/25 「一
廿五日、昌叱へ礼申候、酒すゝめられ候、扨(さて)紹巴うたハれ候、」
・4/26 「一
廿六日、石山の世尊院といへる出家に參會候、」
・4/27 「一
廿七日、何やらん、徒に打過候、」
・4/28 「一
廿八日、上總殿美野(*濃)のことく打歸候、人數よそなから見物、それより、・・・」
(注)「信長公記」巻八に、「四月廿八日辰刻、岐阜御歸城」とある。
信長相國寺出立、岐阜帰城行列を見た後、京都の東山山麓諸所を見物する。
「それより、紹巴・昌叱・肥後のう(*宇)土殿・加悦式部大輔・北野大炊介といへる人同心にて、こゝかしこ一見、先右方に等持院とて寺の跡有、さて四條の道場(金蓮寺)、橋を左に見て打過、五條の橋を渡、中島有、法城寺(跡)といへり、水去て土と成といふ心也、さて行て六原(六波羅)堂、本尊観世音、其脇ニ堂有、地蔵也、其蓮花座の下ニしゝ有、うんけい(*運慶)・たんけい(*湛慶)といへる仏師名作といへり、其前ニ浄(*常)光親王、延喜六代くうや(*空也)上人御影有、念仏を唱たまへは、御口より佛出たまふ所を作す(拝礼す)、・・・、・・・」
それより、小野篁旧跡、八坂五重塔、・・・・・・、泉湧寺では茶の接待を受け、その上酒まで勧められる。次いで東福寺では見学した内容が詳しく記されている。東福寺からの帰途、右方に今熊野を眺め、三十三間堂から六原の普門院に着き、酒飯の饗応があり、愛宕の寺を見て、再度普門院に寄り飲酒があった。その後四條の橋を渡って宿に帰った。
(注)宇土殿:肥後宇土名和氏6代名和顕孝か?(肥後・2/25参照。)このあと、家久は宇土殿に歌会の席で数回出会う。
4/29~4/30は紹巴の三部集講釈があり、これは翌日に続き、あと風呂に入ったと記している。
・4/29 「一 廿九日、紹巴、三部集讀初候、」
・4/30 「一
卅日、朝ハ紹巴物讀、それより風呂ニ入候、」
・5/1 「五月朔日、昌叱・心前同心にて、賀茂の祭礼見物に罷出候、先正(*相)國寺、是は上總殿(信長)定宿也、さて行て右方ニ御たかし川・たゝす(*糺)の森、其次に賀茂川を渡り、けい馬見物し、らち(馬の柵)をいひて其内をのかれ(逃れ)候、(さて)蝉の小川、石川同河也、やかて片岡の森、神山同所也、
賀茂の宮邊にて、京の代官村民其外いさなひて乱舞有、大鞁村井捨弟(*貞勝)、小鞁天下一観世彦左衛門子、大鞁賀茂の社人西藤甚十郎、うたひ澁谷太夫、・藤内、狂言滿左衛門・与左衛門、各ゝ遊らんにも目をも慰め、さて歸へりにしちくといへる村を通り、左に斎院・今宮、さて紫の(*野)一見、猶行て七(*平)野社、さて舟岡、其ゟ京ニ入候、」
(注)「七十一番職人歌合せ」六十三番左に「競馬組」、右に「相撲取り」。
(注)競馬を見物したあと、人混みの中、競馬の柵か馬の柵を抜けて逃げるようにその場を出た。
5/2~5/4は紹巴らと酒を飲んだことが記されているが、三日に紹巴から松茸を振舞われている。
・5/2 「一
二日、紹巴うちへ越候、留主ニ、下京へまかり候、」
・5/3 「一
三日、紹巴歸り候て、松たけ名物とてふるまハれ候、夜入候て、下總の宿へ紹巴・昌叱同心にて酒たへ候、」
・5/4 「一
四日、紹巴は肥後の宇土殿、亦我ゝにも食たへさせられ候、」
・5/5 「一 五日、紹巴の秘蔵空住(*弘法ヵ)大師の御筆、小野の小町の繪像拝見、未尅(14時ごろ)ニ紹巴同心にて先めやミの地蔵(目疾地蔵)に參、さて衹園、其より八坂の堂ニ参見れハ、正徳(*ママ)大師(聖徳太子)の御影とて拝見候ニ、御くしを打わりて玉眼をぬきけるとみえ侍るハ、いかなる者のしわさにや、おそろしくこそ、さて行て・・・・」
(注)紹巴の案内で目疾地蔵(仲源寺)の堂へ行ったところ、聖徳太子の像の頭を割って玉眼を抜き取ってあった。家久はどういうものの仕業かと慨嘆している。今回の見物は、東山の円山、粟田口一帯の地で、粟田口は東路・北陸路へ向う要地で、平安以後貴族の別荘地であった。帰りにかつらの橋を渡り、双林寺、長楽寺に参った。粟田口で、「あハた(*粟田)口釼を作し水有、今もしめ縄を引、おろかならす、是もよしミつと也、銘ニハ吉光と也、」と記す。
吉光は鎌倉の正宗とならび称される名刀で、家久も関心があったようである。
次に、知恩院(「法然上人の御堂有、」)、一心院(「とて浄土の本寺有、」)に参っている。一心院の御堂の脇に、六・七年ほど無言の行をしている者がいると聞いて驚いている。それより「青蓮院とのゝ御館一見、皆荒終候、今は其邊ニ小庵をむすひおわしまし候、」とある。青蓮院は、天台宗山門派の門跡寺院で、法親王や天台座主が住み、粟田御所ともいった。家久の見物した当院は荒れ果てた姿であったという。粟田口を過ぎ、弁慶石という所で、紹巴持参の酒を飲み、紹巴の館へ帰ったと記している。
・5/6 紹巴の案内で、時雨亭、今は畠になっている定家旧居跡(一条京極邸か?)、其邊の式子内親王の墓があったというが今ハない、千本釈迦堂(大報恩寺)、北野天満宮から鹿苑寺(金閣寺)を見学する。「金客(*閣)三かい作也、上ハ三間也、板敷は黒漆なり、」と簡単に記している。平野神社を経て十王堂ふうきょう院御所を見学した。
・5/7 「一
七日、宇土殿、蒙丹連歌興行、連歌終候て、月見ニとて昌叱・心前門外に指出、酒肴、宇土殿兩人も來り候、扨紹巴當座、
五月雨の晴まの月や天の戸をひらきて出し光りなりけん 」
・5/8~5/10まで付近散策(「一巡仕候、」)とのみ簡記のほか、・5/9は「宇土殿・行豊連歌興行、」
・5/11 「一
十一日、拙者連歌興行、執筆文閑、連歌過て、酒數遍めくりて後、十斗入ほとの引盃にて二ツのミ、拙者にさされ候、」
(*家久主催の連歌会。歌会後の酒宴の様子が分かる。宇土殿も招待されたか?)
・5/12 「一
十二日、召烈(*列)たる巡礼卅人計、前に罷下候、紹巴きひしき人にて候間、門外にて各ゝへ暇乞候、心前の源氏見申候、・・・、」
(*注:国許から引き連れてきた巡礼30人ばかりが先に帰国するので紹巴に挨拶に来たので、紹巴は門外まで出て一人ひとりに別れの挨拶をした。このあと心前所持の寄合書源氏物語を拝見する。このときの出席者が連記されているが、近衛尚通、周桂、山崎宗鑑、富小路、曼寿院宮、冷泉為広、三条西公篠、宗碩、宗牧、飛鳥井雅親、雅康、肖柏、三条西実隆、(アト省略)ら多数の公卿・貴人・高僧の名がみられる。)
・5/13 「一
十三日、河上拾郎三郎連歌興行、連衆常泉、其中に但馬衆八木殿の拾(*舎)弟隠岐守といへる人連座候、連歌過候て、澁谷太夫來り候てうたひ承候、其より但馬衆歸るさに馬場末にて追酒、太夫あまたうたハれ候、」
(注)但馬衆八木殿:八木豊信・但馬八木城を拠点とする国人で但馬守護山名氏重臣。歌会同席の豊信の弟、八木隠岐守(信貞ヵ)に出会い意気投合追酒歓談している。豊信の曽祖父八木宗頼は室町時代歌壇の世界で活躍した有名な歌人で文武兼備の武將。帰路の6/15には但馬八木殿の町に宿泊している。この二つの出会いは、のちに島津家久と八木豊信の運命的な関係に続くものと思われます。 (*6/15詳細後述)
<近江坂本へ向かい明智光秀の歓待を受ける>
・5/14 「一
十四日、紹巴同心にて志賀一見ニ罷越、白河を打過て近江の中山(山中)茶屋にやすらひ、やかて風のかけたるしからみなとゝ讀し所一見、行て志賀の山越候得ハ、なからの山・ひゑの山(比叡山)なと打詠て行は、紹巴の迎えとて明智(*光秀)殿ゟそは衆三人、各馬にて來られ候、其馬に拙者乘るへき由申され候へ共、斟酌仕候、
(さて)から崎(唐崎)の一松一見し、坂本の町に一宿し、五月雨の晴まほと有て、月隈なく湖水に移風時雨になと申あへり処ニ、其うしろに舟さし着、明智殿参會有へき由有之候間罷出、紹巴・行豊なと同舟、其儘明智殿城を漕まハりみせられ候、其舟ハたたミ三重(*畳)敷計の家たてられ候、面白くて其板ふきの上に登、猶廻る盃あくこ(*と脱ヵ)なこそ、
舟よりをり、明智殿同道にて舟の内みせられ候、」
(注)・北白河から如意ケ岳北麓を「志賀越」で近江山中に入り、「山中越」で崇福寺跡・大津京跡に入る。
(注):白井忠功氏は論説の中で、【「山川に風のかけたるしからみは流れもあへぬ紅葉なりけり」(『古今集』秋下・列樹。百人一首)を引いたものか。「しが(志賀)」を「しがらみ(柵)」と思い付いたのであろうか。】と解説している。
(注)紹巴は天文二十四年(1555)八月、石山寺倉坊で前年行われた源氏物語講釈の竟宴千句連歌を興行し、世尊院では三条公条、大覚寺義俊らと百韻連歌を興行している。
(注:気分爽快で、酔いにまかせて屋形船の板葺き屋根の上で飲みあげた。
・5/15 「一
十五日、紹巴同心にて一見の所、猶坂本、・・・、」と、坂本・比叡山麓の八王子・その他を見学・遠望する。次に、「それより始の宿に歸候ヘハ、明智殿ゟ(より)城に來るへく申され候へ共、斟酌候ヘハ、麓に明智との下候てめしたへさせられ候、
(さて)座の衆紹巴・明智との・行豊・堺衆大炊介・拙者ともに五人、
種ゝの會尺、座ハ四帖半、茶をと候へ共、茶湯の事不知案内にて候まゝ、唯湯をと所望申候、さて庭の竹一むらの陰に莚を敷、それにて御酒肴有ニ、朝倉の兵庫助といへる人くハゝり候、數遍、それよりよし巻とて、水海の鮒・鯉・むつ・はへなとを芦の中へ紐ニてよせ、軈而(やがて)竹あめるす(竹で編んだ簾)をまろくたて、其中にて魚をくミあけ候ハ目さましき事也、さて明智殿ハ織田との東國の陣立の程なれハ、なくさミのかたには如何ゝ(いかが)とて來られす候、さて其より風呂の前に舟押付候へハ、明智とのさし出られ、風呂にてさうめん、始の鮒鯉なと肴にて酒肴、
紹巴發句、四方の風あつまりて涼し一松、脇明智殿、濱邊の千鳥ましるかるの子、拙者第三と候へ共、斟酌いたし罷立候、其ゟ和田玄蕃(*惟長)なと同心候て、亦城の内一見、さて城のたくハへ、其
の倉薪なと迄積置候事、言の葉におよハす候、さて舟に乘、明智殿いとまこひ仕、元の宿のうしろに舟おし着、少やすらふ所に、明智殿ゟ紹巴まてとて拙者ニかたひら三ツ、宇治の名布とてもたせられ候、きなれ衣の旅やつれを見およハれ候かとこそ、
舟出候へハ、跡にかたゝ(*堅田)、其前に眞のゝ入り江、さてむかへ鏡山、三上のたけ、水茎の岡、やす(野洲)の川、山田やはせ(*矢橋)、
あハつ(*粟津)の森の前舟をさしよせ候へハ、其所の人ゝ紹巴へすゝをもたせ來たつさひ申候(発句を所望した)、さてせた(*瀬田)の長橋、亦から(*唐)ともいへり、其次に舟橋、軈而石山世尊院へ參、風呂ニ入、あるしまうけ様
、夜入て兒若衆こうたなとうたひ酒宴あるに、十二三計の若衆小歌なとを舞廻られ、其興をもよふされ候、」
(注:明智光秀から茶を勧められたが、茶の湯を知らないので湯を所望している。平然と記しているが、家久京都滞在最大の恥であったか。このあと当然、茶の湯を習得しただろう。
(注)坂本城:元亀2年(1571)織田信長比叡山焼討ち、明智光秀に坂本城築城を命ず。天正16年(1586)秀吉坂本城を廃城し、浜大津に大津城を造らせるが、のち家康これを廃城し、膳所に築城。
(注:明智殿は織田殿が長篠の戦いの準備で忙しいのを気にして遠慮して来られなかった。
*長篠の戦い:5/21・織田・徳川連合軍、武田勝頼を撃破。
(注)*坂本城内見物では、壮大な外観や内部の構え等、建物には興味がない?のである。兵糧の蓄えに関心があるようだが薪のみ記す。また、道中で見た城についても、真近かに見ているはずの廃城については、まったく興味を示していない。仁保島・志芳堀・高屋白山等、10kmも離れた目視限界の城を含めた現役の城のみ記しているが、明石の城や後述奈良の多聞山城・その他壮大であったと思われる城についても所感がないのである。家久の興味は別のところにあるようだ。或いは意図的に日記に記載をしていないようでもある。

活城と廃城の標準的イメージ
(注:坂本城内見物の後、舟で堅田、真野入り江、対岸の鏡山、三上の嶽、野洲川、矢橋を眺め、粟津の森の前に船を付けた所へ、土地の人たちが紹巴へ発句を所望する。瀬田の長橋(唐橋)から石山世尊院に入り、その夜は風呂に入る。夜入て・・・・、)
・5/16 「一
十六日、世尊院連歌興行、」とのみ記。
・5/17 「一
十七日、石山の観世音へ參詣候へハ、源氏のまとて、紫式部源氏を書たてし所あり、其上に式部の石塚有、(さて)寺に歸り石山の御ゑんきの繪像拝見、其ゟ紹巴此寺ニ徒にやハとて、源氏桐つほの巻を讀候、
歸京の折節、風呂と候へ共、急打出るに、坊中衆すゝを中途まて持せられ、酒宴頻に侍り、
本國尾張衆山ち源介といへる人、前の同會にあハれ候、其夜ハ歸り舟にて亦迎に來られ候、是も舟中にすゝを持せ候、さて水上のミわたしに笠取山遥にみえ侍り、亦行て兼平(*今井)の原(*ママ)切し(腹切し)處有、
木曽(*義仲)殿臥所田中に有、鎧塚とて有、又とものへのしるしの松有、さて打出の濱、其ゟ大津に舟つけ三井寺一見、さて僧正紹巴の迎にさし出候て、寺の前の御堂にて酒肴、さて名に響たる鐘、三井の水に心をすまし立歸に、おのゝ小町の石塔有、亦小町の腰かけの石とて有、やかて関守の跡有、さて相坂(逢坂)の関を越、関の清水を結ひあけ、手を冷しなとし侍るに、玉鐘の地蔵とて有、亦行て蝉丸ハう屋の跡有、其次ニ走(*ハシリ)井の水、其より行てひやうしくしとて関有、関東の巡礼衆せき留られ物うけなるを、拙者校量としてとをし候、さて紹巴智音の方より送馬二疋引せ、拙者のれと候へとも、たゝとてかちより行て、音に聞きし音羽山、をとはの里、さて行て四宮川原、其邊山科也、さて天智天皇のみさゝき、其次に花山の僧正の館有、
ハうくハん義經のけかけの水とて有、其次松阪、あハた(*栗田)山、南祥(*禅)寺見歸り佛とて有、亦ぬへ射たる所、
しゆんくハんの居ところの跡、次にしもかハら(*下河原)、さて歸京候、」
(注:万事がこんな調子で、明智光秀歓待のあとでもあり、復路を確認するため、また源氏物語や小町に関する記述もあったので、原文のママ全文記載しました。紹巴の案内・説明によるとはいえ、家久の好奇心旺盛な鋭い観察力には感心します。また、「関」・「渡賃」についても、「城・館」と同様に余さず記載しているのは、戦国武将らしい一端をみることが出来ます。)
(注):船中でを笠取山を遠望しながら「平家物語」木曽義仲最後の地をみる。打出浜で今井兼平と出合った義仲は主従二人となった今、自害しようとしたが、馬を水田に乗り入れてしまったために首級を上げられた。これを知った兼平は戦をやめ自害する。
(注)関東の巡礼者一行が関留められ困っているのを一緒に通り抜けて助けてやった。
・5/18 「一
十八日、小笠原殿へまいり候、」
(注)小笠原殿:小笠原氏は清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有識故実を伝える一族として知られ、全国各地に所領や一族を有する大族である。室町時代以降、武家社会で有識故実の中心的存在となり、家の伝統を継承していったことから、時の幕府からも礼典や武芸事柄においては重用された。これが今日に知られる各種小笠原流の起源である。室町時代、京都小笠原氏は将軍側近の有力武將として重きをなすとともに、6代将軍の足利義教の頃には将軍家の「弓馬師範」としての地位を確立し、以後「的始め」(弓始め・弓場始めの儀式)、「馬始」めなどの幕府の公式行事を差配し、当時における武家の有識故実の中心的存在であった。江戸時代には五家が譜代大名となっている。(詳細、wiki・その他参照)
・5/19 「一
十九日、昌叱(*里村)にて連歌有、」
・5/20 「一
廿日、黒田六郎左衛門樽持参候、亦下京衆清水龍清樽、其後堺小屋ゟ樽四ツ、種ゝ取合、則紹巴・昌叱寄合候、」
(注)黒田六郎左衛門:黒田氏庶流の黒田六郎左衛門高長か?織田信長の部下と思われるがWeb検索では詳細不詳(要検索:日本氏族大鑑)。のち黒田孝高(官兵衛)豊前入封のとき九州仕置きに反発一揆の城井鎮房に寝返り、功あって黒田姓を賜り黒田六郎左(右)衛門を名乗る中間統種がいるが、これは当然別人。
・5/21 「一
廿一日、紹巴ゟ會尺の連歌有、」
・5/22 「一
廿二日、小笠原殿へ參歸候ヘハ、丹波ゟ遠路に候へとも、新藤左衛門太輔(進藤長冶)殿 近衞様(近衞前久)よりの御使として、同御尊筆の一冊御書状頂載申、其より一巡仕処に、長野下總守御酒紹巴へ進候、」
(注)5/27伊勢参宮出立を前にして、里村紹巴や昌叱の歌會に出席、また近衛様からの使者(進藤長冶)から御尊筆一冊書状を頂く。
(注)近衞様:近衞前久(このえさきひさ) *6/7で詳細後述。
・進藤長冶:近衞家家臣:藤原氏郷流血族進藤氏か?(詳細未確認・不詳)
*家久は伊勢参りを終えて、6/6一旦京都に帰り紹巴の館に宿泊するが、帰国出立前夜の6/7に
も近衞様御使者進藤長冶の訪問を受けるので、6/7で詳細後述。
・5/23 「一
廿三日、大覚寺殿・飛鳥井殿申請、連歌興行仕候、新藤殿(進藤?後述)御連座、さて連歌終、乱酒ニ成、大覚寺殿・飛鳥井殿の御盃度ゝ御しやく、御さかな被下候事其數をしらす、新藤殿・紹巴なとおのうたハれ候、」
(注)歌会後の乱酒・大宴会は、家久伊勢参宮出立壮行会の趣が強いようである。
5/24には京都滞在最後の見物地として鞍馬を案内されるが、そこで異常なまでに親切・精力的に京の文化や名勝・名跡を紹介・案内をしてくれた紹巴の性格の一端を垣間見ることになる。
・5/24 「一 廿四日、鞍馬一見、紹巴同心候、・・・(中略)・・・、さて、鞍馬へ參、御甲、御太刀いたたき候、僧正か谷、うし若殿兵法御傳の所
いろ
のしんひの事拝、其ゟ薬師坊といへる座敷をかり、紹巴酒飯をもたせらる、其座はかけ作り、山家の躰哀をもよほすに、紹巴源氏の若紫を被讀候、其興たゝ成半に、坊主毘沙門の御まき(捲)をすゝめ有へき由候ヘハ、紹巴其氣色替、此座の長居御無心にや、更ゝ御坊の御心つかひ有ましき事とて、源氏をふところに入、其座を荒ゝ敷たゝれ候を、坊主紹巴の袂にすかりけるをふりはらひ、かまのさうをたてゝ庭に飛おり、其下の堂にてさすかに若紫の巻を讀取、其下ニとある坊に立入り、かさね
の盃おかしくも哀にもこそ、さてかへさに大雨にて候、」
(注:京都滞在最後の訪問地に鞍馬を選び、この地で遠来の客に「源氏物語」の一節を読み聞かせ京文化の真髄を伝えようとしていた紹巴は、浅はかな坊主に毘沙門と同列視され、水をさされた事に怒り心頭になったのではなかろうか?また古の文化が廃れつつある昨今、巷の無関心にも危惧しながらの日常であったのかも知れない。そして現在の状況はどうか。始めて京文化に接した最果て薩摩の家久にはそんな事には思いが至らないのだとおもうのだが...。)
・5/25 「一
廿五日、飛鳥井殿へ參、くす袴沓のゆるし申請、歸り候て觀世・宗雪・澁屋せいあん・子三郎右衛門食たへさせ候、亂舞承候、宗雪のうたひ、三郎右衛門助音、清安大鞁一ちやうにてはやし候、歳ハ八十四と申候欤(よ)、猶若ゝしくみえ聞え候、其晩に大覚寺殿よりかたひら給候、」
(注)くす袴・沓(くつ)のゆるし:正式の蹴鞠装束で蹴鞠を行う免状を得た。ここは「塩飽」での無方鞠を思い出させる一節。何事にも拘る家久君の繊細・緻密な性格が窺われる。
・5/26 「一
廿六日、小笠原殿へ參、其後飛鳥井殿へも參候、歸候へハ、小笠原殿より弓かけあまた具たまハり候、」
<いよいよ、伊勢へ向け出立!>
伊勢では、びっくり仰天。見てはならぬものを見てしまいます。更に、帰路の荒木村重有岡城でもびっくり、あっけに取られ、そして、因幡若桜では尼子氏再興に執念を燃やす山中鹿之助の因幡鬼ケ城乗っ取り事件とその部下に遭遇。温泉津では出雲阿国の類らしき出雲衆わらハへ(童部)の能ともなし神舞ともわからぬ舞に歴史的出会いをするのです。