家久君上京日記
(二)
赤間関~京都到着
凡例・「 」は原文のママ ・(* )は原文注釈 ・「・・・」は文中省略
・( )・(?)及び(注・*)は当方で記入の注釈
・傍線は注意事項、あるいは注釈を省略するために、当方で引いています。
<長門赤間関から宮島へ向かう>

<赤間関で神風吹く!>
赤間関から船で宮島を目指す予定であったが、ここで神風が吹くのです。
なお、山陽道防長路ルートの詳細は、拙筆サイト 「周防国の街道・古道一人旅」のうち「周防国西部~赤間関ルート図」を参照して下さい。
天正三年(1575)三月
・3/11 「一 十一日、安藝の宮島へ渡へく舟約束候て逗留候、餘り徒にはありかたくて、小船さしうけ海草なとかつかせ候、」
・3/12 「一 十二日、順風なくて猶滞留、然者京者神山(亀山)八幡宮にて狂言法楽つかまつるを見物、」
・3/13 「一 十三日、追手なくて亦滞留、其夜の一番鳥ニ順風有て出舟、せんとう塩屋又左衛門、」
・3/14 「一 十四日の明方ニ、右の方ニ文字の城(門司城)を見て、其ゟ(より)先に海こしに、幽に豊後の竹内といへる山みえたり、左方長門の最ほのかにみえ、其沖中にかんしゅ(*干珠)・満壽(*珠)の島とて二ツ有、さて順風俄に替りて亦乗なをし、関の湊に舟をつけ、本の宿へ歸り徊ふところに、又順風有とて舟にとりのりおし出す、さて其夜ハ文字の城の麓(田ノ浦側根元付近?)に舟かゝり、」
(注)竹内といへる山:豊後国東半島竹田津背後の両子山(720M)、あるいは竹田付近の高峰か。
(注)満珠島 ・干珠島:長府沖の神功皇后を祀る忌宮(いみのみや)神社の飛地境内の二つの小島。神功皇后の三韓征伐のとき、皇后が龍神の無事といくさの勝利を願ったところ、住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたという伝説がある島。国土地理院等現代では陸に近いより小さい島が干珠島で、沖側の大きい島が満珠島になっているが、忌宮神社の台帳では岸側が小さい満珠島になっている。家久君は沖合いから眺めているので、順に干・満と表現していると思うのだが...。大体、干潮のときに島は大きくなり、満潮のとき小さくなると思うのだが。
・3/15 「一 十五日、追風を待候へとも、北風頻に吹、亦すこし吹たゆむ折も有しかとも、舟子しかなくて、近日の内に出船なるましきやうにみえ侍る間、酉の刻(18時頃)程に水取舟のありし間、各船賃を捨て、寺のうしろという渚に船をつけ、長門の最に打出けれは、町の邊に神后皇居とて大社(忌宮神社)有、參詣候ヘハ、宮門ニ酔臥たるを驚かしたりけり、不知眠居、さて其當の寺八の寺なといへる一見、其夜ハ杢左衛門といへる者の所へ一宿、」
(注)このままでは舟子や次の出船がどうなるか分からないので舟をあきらめ、・・・、
(注)眠っているのを知らなかったので驚かしてしまった。
(注)・杢左衛門の「杢」が気になります。赤間関の東御本陣伊藤家は、江戸末期頃まで代々杢を名乗っていたのでは?ここは長門の府だが江戸期赤間関の伊藤家と多少の関係があるかも?
結局、長門の府から山陽道防長路を陸行することになります。神の御加護・神風に感謝しましょう。酒の臭いをぷんぷんさせながら家久一行の行進が始まります。
・3/16 「一 十六日、巳の刻(10時頃)に打立、未の刻(14時頃)に吉田(吉田郡)といへる町を打過ぎ、あた(厚狭)の村山の井(山井・山野井:厚狭郡)という所に一宿、有主膳九郎、」
(注)小月から埴生浦経由、埴生道を山野井へ向ったと思ったのですが、山陽道を吉田に迂回しています。当時の小月~埴生浦間の道の状況がよく分かりません。干潟か海岸偏道であったことは容易に想像できます。この区間は、広島付近で家久一行が北へ迂回選定したコースによく似ています。これに対し応安4年(1371)10月今川了俊は厚狭の郡(厚狭・郡)から埴生を通過し干潟偏道を長門国府へ向っています。広島付近も海田から干潟・海岸沿いを西下していますが、これは騎馬と徒歩の違いのためか?中世にかけて次第に一般人の通行が増え、満干の制約がある干潟を避け、これを迂回する内陸部に移行していったようです。
(注)厚狭郡は寛正2年(1461)「大内家掟書」によれば、東部厚東・中央部厚狭・西部吉田郡に分かれる。(「山口県の地名」:平凡社)。旧楠木町(船木)は厚東郡。また、この時期厚狭郡西部は吉田郷・宇津井・松屋付近を含み吉田郡であったとおもわれるが、範囲詳細不詳。(「日本歴史地名大系巻36」平凡社:本稿2015.03.21追記)
・3/17 「一 十七日、天氣あしかりき間、留ぬへき心有しかと、亭主きひしくにくつら成りし間、辰の刻(8時頃)に打立行は、俄大雨なりし間、石ま(石丸:厚狭郡)といへる村に立より雨やとり侍れハ、爰も亦にくつらなりし程に、天氣晴行ハ申の刻(16時頃)に打立候て、あさ(*厚狭)の町をとふり、船木(中世厚東郡)といへる町ゑひす屋と名ハおそろしけれは(*共)、心さしある人なり、」
(注)ここは、山野井・石丸の亭主と船木の亭主の比較をしているようである。厚狭や船木に比べれば山野井・石丸は貧しくまかないも出来ないような寒村である。
<周防に入る>
・3/18 「一 十八日、巳刻(10時頃)打立て、未刻(14時頃)に山中の町(長門厚狭郡)を打過、周防の内賀川(嘉川:周防吉敷郡)の町を通り、こゝふり(*小郡)とて町有、それゟ(より)酉の刻(18時頃)にすへ(陶:吉敷郡)の町ニ着、太郎左衛門といへるものゝ所ニ一宿、」
・3/19 「一 十九日、巳刻に打立、やかてすゑ(*陶)の町末にてやくしよくし(公事:税)とてとられ、さて未刻(14時頃)に天神の宮(天神国府・松崎天満宮:周防佐波郡)ニ着、國分寺一見し侍るに、糸さくら有、猶行てうけの(浮野)といへる町に出けれは、是ハ皆檜物師計也、それより行ひやうしくし(公事)とてあかり海そく の有所に関有、そこを打烈(打ち連れて)行に、人数の中成しかとも、拙者一人を引留候處ニ、あとゟ(より)南覚坊来り、其理を捌罷通、 (さて)酉刻(18時頃)とのミ(*富海)(佐波郡)といへる町かんの太夫の所へ一宿、」
(注)陶の町末で役人から「くじ」(公事:税・通行税)をとられた。
(注)檜物師(ひもし):檜木の板で曲げものを作る木工師。木地師(きじし)は轆轤で木の椀、茶碗を作る木工師。
*15世紀末から16世紀初頭の「七十一番職人歌合」五番左に「檜物師(ひものし)」、右に「車作」。
(注)ひようし(ひようじ):港や道路を警備する兵士 ・あかり海そく:陸に上がった海賊。
以上を整理・総括すると、「富海の手前(橘坂を下った付近か?)の海岸沿いの道に関があり、陸に上がった海賊兵士が守っていた。通行税を払って連れ立って通行していると拙者一人だけが引き留められたが、しばらくして後から来た南覚坊が其理(とりなし)、捌き(さばき)罷り通ることができた」。
*これは毛利氏から委託された正規の海賊衆と思われる。予定外の陸行に「先達」の南覚坊は前日宿泊所の支払い、始末や途中の休憩所の始末、宿泊先との先行折衝に急がしそうである。いつもと違う桁違いの人と酒、肴の始末におおわらわだったか?この区間を旅された方は、天神国府から牟礼(浮野)を過ぎて浮野峠の手前で間違いなく休憩したと思われるでしょう。
*富海での出来事は重要なポイントで、ここを何事もなく無事通過できたことは、以後の毛利氏配下の防長路、安藝・備後路通過を保証することになったと思われます。
・3/20 「一 廿日、巳刻(10時頃)に打立、未刻(14時頃)ニふく(*福)川(都濃郡)といへる町を打過ぎ、平野といへる町を通り、是ハ又皆石切也、とんだ(*富田)の町、それを右の方ニみて、惣志八幡とて宮有、其脇に南勝院とて寺有、さて満所(*政所)とて町有、其次に野かみ(野上 ・のち徳山)といへる町ニ出けれハ、其日の立市なり、又行て末武の内に入ぬれハ、雨すこし降きぬ、さてこう(こそ・古所:都濃郡末武村古所)といへるむら孫左衛門といへるものゝ所に一宿、」
(注)石切:福川・平野・富田沖の黒髪島は「徳山みかげ」と呼ばれる良質の御影石の産地で知られる。国会議事堂の腰部、その他に使われている。平野は律令時代駅家が置かれた所。
(注)富田(とんだ)は富田津の古市が中心地で東大寺は富田庄の地頭職を付与され、周防灘の中心的海運物資集積所として栄える。大内氏(弘世)の戚族重臣陶氏二代弘政は正平十年(1355)頃陶村から当地に移り、富田下上に居館(平城)を設け東大寺の保司ないしは代官所跡地と推定される古市の地に勝栄寺を開基創建する。勝栄寺には土塁と豪の一部が今も残る。山陽道筋の惣志八幡宮(現山崎八幡宮)から見れば右手海岸方向になる。毛利元就防長経略後、大内氏残党大一揆掃討のため安芸吉田郡山城を再出馬、弘治三年(1557)十一月富田古市勝栄寺に在陣し、三子教誡状(三矢の教え)を書く。豊臣秀吉文禄の役のとき在陣(宿泊)し、境内に太閤松切株が残存。
(注)野上:都濃郡徳山の広域古名(野上庄)。元和三年(1617)毛利輝元次子就隆に都濃郡において高三万石を分地。はじめ居館を下松に置いたが慶安三年(1650)に野上(庄)に移し名を徳山と改め徳山藩となる。江戸期、JR徳山駅前付近を中心に山陽道筋に本町筋七町が東西に分布。野上町の地名は徳山駅の西方面に今も残る。
(注)末武のむら「こう」については、何故、花岡八幡宮門前町集落・末武村花岡に一宿しなかったのかと疑問に思い、そうだ! 急きょ陸行変更したため、適当な予約が取れなかったのだ! それにしても末武に入って花岡の手前に宿泊可能な集落はなかったはずだがと思いながら久米村、末武村近辺の地を探すが不明。「こう(?不詳)」として、一旦は通り抜けたのだが、「歴史の道調査報告書」に、「花岡八幡宮前を300M西へ進んだ処が古所(こそ)で「行程記」に、豊臣秀吉公御止宿御旅館と記されている。」とあるのを発見。ここは、末武村花岡の中心部西端付近、JR周防花岡駅交差点の少し西付近になる。山陽道ルート図メモにも追記しておく必要がありそうだ。
・3/21 「一 廿一日、天氣あしくて逗留、亭主ハうちのひたいとり候、子三人有、一人の名ハ歳松といへる、亦一人ハちまといへり、」
・3/22 「一 廿二日、巳刻(10時頃)に打立、やかてあの(*花)岡といへる町を過行て、窪といへる町を通り、かふすかたをといへる町(甲ケ峠:都濃郡切山村峠市)を過行、海老坂(のち呼坂:熊毛郡)といへる町をかゝミ通り行ハ、右の方に満尾(三尾)の城、たかけれと悪き城有、又行て久賀(玖珂郡)の内高もり(高森)の町といへと、わつかなるかれ飯をめんつう ゟ (より)取出し、名にしおはゝ、なと口すさみけるもおかしくて、亦行 てあやま(玖珂三市のうち阿山)の町とて有、つゝきて中の町(玖珂三市のうち新町と本郷)、亦未の町(ヒツジ・うれの町:野口)有、
(さて)行きて柱の(柱野)といへる町、助左衛門所へ一宿、」
(注)古所と花岡の町を「やがて」と別地表現していることに注目。
(注)かふすかたをといへる町:甲ケ峠(峠市の峠)・都濃郡窪市を過ぎて熊毛郡海老坂(呼坂)の中間点には、都濃郡切山保(村)「峠市」と熊毛郡勝間保(村)しかない。都濃郡峠市付近が甲ケ峠とおもわれ、ここから山陽道を熊毛郡に入って遠見・鳴水峠を過ぎて海老坂の手前が勝間である。
豊臣秀吉文禄元年(1592)三月朝鮮出兵の途次、海老坂を過ぎて勝間保御所ケ原に陣所(宿所)を設け近くの羯摩八幡宮に参拝・戦勝祈願した際、社名を勝間に改称させる。都濃郡に入りこの地の名を問い、「切山」と聞いて切山の名を縁起がいいと非常に喜び、当所の氏神切山八幡宮に参拝、武具一式(甲冑)を奉納し、以後この地を甲ケ峠と呼ぶようになったと伝える。(「風土注進案:都濃郡宰判切山村」)
甲ケ峠は切山村の小名の一つで、窪から二の瀬(フタノセ)の坂道を過ぎて峠の頂上部で北方1.2kmの切山八幡宮への分岐点となる峠市中央部と思われる。この付近甲ケ峠の字名は近世になって無くなり、明治の頃まで「彌ケ迫(イヤガサコ)・岡の原」と呼ばれていたようである(現地古老聞き取り)。
「かふすかた」をかふ(甲)のかた(方・位置の端・たお)と考えれば甲ケ峠、即ち都濃郡切山村峠市往還筋。秀吉の伝承以前から甲ケ峠と呼ばれていたことになる。なお、この付近蛇行する峠市の街道北側が切山村、南側が来巻村で、近世、峠市は切山村東南端と、来巻村北東端に属する。
(注)海老坂(のち呼坂)の坂(古市坂)は「身を屈めて上がるような急坂」と記す。形態が海老が曲がったように見えることからこの名が付いた。この短く急勾配の東西の古市坂のうち、西側は昭和20年の大型台風で崩れ、一部迂回し緩坂となったが、東側は今もその形態をとどめる。この古市坂を含めた東側の集落が海老坂(呼坂)。
(注)三尾城:大内氏家臣周防国道前三尾城(三ツ尾城)在番蔵田教信、天文20年(1551)陶晴賢主君大内義隆に謀反のとき、主君に味方し陶氏に敵対自刃。蔵田教信は大内氏安芸国支配拠点安芸東西條鏡山城の城衆で「鏡山城の戦い」で自刃の蔵田房信と同族と思われる。
弘治3年(1557)4月毛利元就防長経略完了後、家臣井原氏を三丘(三尾)に送り城の整備を命じるが、毛利輝元防長二国移封時には廃城となっていた模様。家久君が日記に記載していることから、この時期毛利氏の城番が居たものと思われるが不詳。
(注)かれ飯:乾飯。当時の携行食は焼飯、あるいは蒸し飯を親指か小団子程度に丸めて乾した乾米、これを水か湯で解し食べていた。・めんつう(面桶):檜や杉の薄板を曲げて作った携行食容れ物。
(注)高もり:ここは、粗末でわずかな乾飯をつつきながら高森を飯の大盛り、「高盛り」と比喩している。山陽道筋のこの地は椙杜(すぎのもり)・杦森、或いは泉山(椙杜八幡宮)の威容が転じて次第に高森と言われるようになったといわれていますが、この時代に既に高もりとは...。まさか家久君が名付け親では??
高森の地名文出は古くは永正八年(1511)「天野家証文」に、大内義興の永正船岡山合戦において天野氏(志芳東天野氏)宛勲功行状の中に「高森二百貫の事」。永禄五年(1532)伊勢神宮御師橋村氏の地方の旦那衆に御祓や土産物などを配ったときの「中国九州御祓賦帳」に「たかもり」。
(注)未(ひつじ・うれ)の町:江戸期玖珂三市は、西から順に阿山・新町・本郷の三市であるが、新町・本郷は玖珂の中心地を一体的になす集落。中の町はのちの新町を含めた玖珂本郷を包括的に指すものと思われ、玖珂の阿山、中の町(玖珂本郷)を過ぎて未の町は玖珂本郷の東に隣接する野口と思われる。ここは律令時代野口駅家が置かれた所。野口を過ぎて山陽道防長路で一番高く急勾配七曲がりの欽明路峠を越えれば柱野金坂の険しい山間部。柱野金坂の深山を下り柱野から河内(御庄)へ向けては御庄川沿いに川六瀬の飛び石伝いの難路であった。
*何故かこの区間は具体的です。海老坂(呼坂)の体を屈めるような短い急坂、中山峠を玖珂郡に入って差川(指川:さすがわ)で三尾城を右に見て、城に対する具体的な所感が記されています。九州の城については〇〇殿の城、或いは館といった具合で名前のみ。ここまで二、三件見学した異国の城や館についても「一見」、とのみ記されているため、どの程度見物したのかも不明です。おまけに、「高森」を銀飯の「大盛り、高盛り」とは...。
悪しき城、「三尾城」のある城山(じょうやま)は、熊毛・玖珂郡境の中山峠を玖珂郡に入り差川(指川)の東端から眺めれば、三つの尾根が繋がったように見えます。(注:戦国期、熊毛郡呼坂を過ぎて中山峠の熊毛郡側から玖珂郡高森の手前付近までの山陽道筋広域地名を各種古文書から周防国道前:どうぜんという。)
この家久君の学識あるユーモアは、京都滞在、その他道中の随所にみられ薩摩隼人の意外な側面を見せてくれます。
*注目すべきは、この時期島田川沿い「差川掛ノ坂」を彼らが通行していることです。このルートは山陽古道「相ノ見越」に対し、「新道越」といわれています。
赤間関で吹いた神風はここまで届いていたのです。周防国道前三尾城在番蔵田教信と安芸国東西條鏡山城の城衆蔵田房信が「家久君上京日記」を知るきっかけを与えてくれたのですから。また、三尾城について具体的所感がなかったら、家久君に出会うこともなかったでしょう。
*「周防国道前三尾城在番蔵田教信」及び「新道越」の詳細は、拙筆サイト:「周防国の街道・古道一人旅」の「玖珂天神~高森天満宮」のうち、「通化寺」及び山陽古道「相ノ見越」の項参照。
<安藝小方から舟で宮島へ向かう>

・3/23 「一 廿三日、辰刻(8時頃)に打立、かふち(*河内)といへる村を通り、やかてミしやう(*御庄)川のわたし(御庄の錦川の渡り)にて渡ちん、亦お瀬川(小瀬川:玖珂郡小瀬・岩国市)といへる所ニ而渡賃、其川渡れハは安藝の内といへり、亦おかた(*小方)(安藝佐西郡小方・大竹市小方)といへる町に着、船をたのミ宮島へ渡、海上の躰、浦 近く打霞折りしも小雨打そゝきたる躰、類なき景也、
(また) 船ち(船路・船首)の左の方に、くわた(くば・玖波?)とて町有、未作おろさゝる舟五拾二艘、かハらはかりをすへ並へたるハ數をしらす、亦行て、やせ松・こゑ松とてひやうしくし有、猶行て、もととり山とて明神の御地有、其島の岩の上に松有、から崎の松もかくこそあらめなと申あへり、其次にたかねとて塩屋(大野浦塩屋)とて村有、亦次に明神の御作とて、橋柱といへる島二ツ有、又右の方に明神の錦の袋を御おとし有しか、今に石と成りて有、其宮をたかへす、さて其次にさかり松とて有、亦次ニ大もと明神とてまします、是宮島の本主柱神也、今の明神へ所を御かし候て、大本權現ハすこしの宮にましますと也、庇もやのなといへるためしにや、
(さて)宿柳下太郎左衛門、」
(注)御庄で錦川を渡れば多田。関戸から小瀬峠を越えれば周防・安藝の国境小瀬 ・小瀬川。
(注)くわた:玖波の唐船濱(とうせんば):近世西国街道(旧山陽道)玖波宿の馬ためし峠北に隣接する入江と浜で字名唐船浜。現在は団地だが、大きく入海していた。往古唐船が着岸した地と言い伝えられている。「玖珂郡志:小瀬村」に、文禄・慶長の役(朝鮮の役)に太閤秀吉天正18年(1590)ここで防房丸(ぼうぼうまる)などの舟を作らせるが、周防玖珂郡小瀬村乙瀬の船板を採用させたと伝える。当時から船作が盛んであったと思われる。近世小方--玖波宿--馬ためし峠—玖波唐船浜--鉾の峠--大野鳴川--大野四十八坂--大野塩屋。今でも大野瀬戸から眺める厳島の弥山と玖波から大野四十八坂背後の経小山(きょうごやま)山系は類なき景観。メバルもよく釣れます。
*(注)未完成陸上の舟52艘、・かはら:船底板、縦に並べると瓦を並べたようにみえる。
船内からくわた(玖波唐船浜)沖、塩屋の村(大野塩屋)沖を過ぎて宮島までの大野瀬戸左右の景観を船頭から説明を受けたようで、詳細に書きとめている。ようやく宮島を目の前にして、花崗岩露出の赤い岩と松、瀬戸内海沿岸の特有の景観模写が巧で好奇心にあふれ、うきうきとしている心境が窺われます。それにしても未完陸上の舟が52艘と無数の船底板。さすが戦国武将らしい鋭い観察力。宮島柳下太郎左衛門の所に宿泊。
・3/24 「一 廿四日、嚴嶋へ參宮、一見候へハ、鳥居の高さ十三ひろ、廣九ひろ、柱六本也、さて本社弁在天にてまします、森(毛利・後述)殿四五ヶ年以前に御宮作なされ候、宮九間也、黒くさひしき(彩色)候て、金物皆ほりあけ透かしかうし(格子)綠青にてたミあけ候、會廊百八間也、本宮は戌亥間也、本宮より北の方に宮有、是も嚴嶋明神にてまします、本地毘沙門、亦輪蔵有、それゟ上に法納所とて有、其ゟ海邊をミれは、此島には死たる者をおかさる事、明神の御いましれなれハ、無からを海向のことく舟十三艘にて送、念仏佛の聲哀に聞ゆ、扨(さて)法納所の下を宮崎といへる、其を蓬莱山とかうす(申す?)、さて北の方町の方に五重の塔有、亦本社より南西の間に亦輪蔵有、又南の方に十一面堂有、西に二重塔有、其邊の堂宮數をしらす、亦本宮ゟ右の脇に大なる鐘有、亦左の方に大黒堂有、海の方にかりとの屋有、亦大願寺あたりの寺一見、したきしやうし・柳しやうしなとゝいへる小路有、さて宿を打立候へハ、治(*地)頭にて中村兵庫といへる者、此の巡礼ハよしある者とて頻に留られ候あひた、其日ハ逗留、夜入て源介・小三郎なといへるもの來たり、酒宴にてふかし候、さて此島の西の方にみせん(*弥山)とて不思儀の霊地有、求門持堂なと有なといへり、」
(注)神域宮島に墓は今も無い。家久君は、死者を埋葬するため対岸の宮島口へ向かう僧侶や縁者の乗った葬儀の舟列を見たのである。現在もこの風習は続く。
(注)宮島での見学した内容は異常なほど詳細・緻密である。さすが野戦を得意とする家久らしい。
当方は長年、緑井の東隣りの川内に住んでいたので、宮島までの「先達」予定が興味津々予定オーバーになってしまいました。この後、廿日市から陸行、鞆から船出し京に到着するのですが、海行途中にも面白い事件が二、三あり、京都における信長の馬上居眠り行軍見学関係・近江坂本城での明智光秀の歓待・石見温泉津で出雲阿国の類らしき出雲衆わらハへ(童部)の出雲歌による能か、神舞とも判らぬ不思議な舞を一見する等の原文記載、帰路の要旨について引き続き本項に抽出掲載予定でしたが、伊勢・播磨・丹波・但馬・因幡・温泉津方面も「全区間 ・全文記載」としたため、長くなりそうなので、以降については次回のブログで「先達」したいと思います。猶、ルート図については別途作成し、完成の都度適宜挿入する予定です。
【参考】応安4年(1371):今川了俊「道ゆきぶり」*地名・地勢に関係するもののみ抽出。
<佐西(さゝい・廿日市)・嚴嶋参詣>
9/20佐西(さゝい・廿日市)から嚴嶋に参詣。(詳細省略するが家久君の方が詳細・緻密な記載)
<佐西(さゝい)から大野浦>
(注:佐西ではここから西下する船団を見送る。)
9/21 「廿一日は、此の佐西(さゝい)を出でて、地の御前といふ社(地御前神社:嚴嶋神社の外宮)の西干潟より山路に入るほどに、大野山中(大野中山)といふところに着来ぬ。 長月の在明の月影、しらじらと残りて、木の下露は、まことにかさも取りぬべく、所狭き紅葉の色濃く見渡されたる中に椎の葉の嵐に白く靡(なび)きて、松のの声、山川の音に響きあひたる朝朗(あさぼらけ)、ミニしみて覚えたり(大野高見の高見川峡谷付近)。
『とにかくに知らぬ命をおもふかなわが身五十路(いそじ)に大野中山』
『昔誰蔭にもせむと蒔く椎の大野中山かく繁るらむ』 (中略)
此の山分け下りて、また浦に出でたり。ここをも大野浦(大野塩屋付近)といふ也。向ひの山は厳島山の南のはずれなりけり。行きめぐりて、なを同じ所(同じ大野というところ)になりにたるかな。・・・(中略)・・・。此の舟ども(漁師たちの舟)の中に、朝餉(あさげ)の営みするとて、煙の立ち上りつつ、浪に映ろふ景色、心あらん人に見せまほしかりき。 浪の上に藻塩焼くかと見えつるは海人の小舟に炊く火なりけり。」
(注)往時の大野は大野塩屋付近から大野中山付近にかけて永慶川に沿って入江となって深く入海していた。
<津葉(玖波)・黒河・周防多田・海老坂・遠石(といし)・富田(とんだ)>
9/22「それよりこなたは、みな山路なり。津葉(大竹市玖波字唐船浜)・黒河(同・黒川付近)・こえ松・屋を松などいふも、海かたかけたる深山路なり(小方城山・のち亀居城址北麓付近から苦の坂付近までを指す)。大谷とて岸高き山川(大竹川:小瀬川・木野川)流れ出でて見ゆ。これより周防の境と申す。今夜は、多田といふ山里にとどまりて、朝に又山路になりぬ。これなむ岩国山(柱野金坂から欽明路峠付近を指す)なりけり。一つ二つある柴の庵だになく、人離れたる山中に、深山木の蔭を行く。誠に岩高く、物心細き路なり。夕になりぬれど、木樵だに帰らず、鐘の声も聞こえぬ所なり。・・・(中略)・・・。はるばると越え過ぎて、又海老坂(呼坂)といふ里に寺の侍りしにとどまりぬ。廿二日なるべし。
又の日(9/23)は遠石の浦とて、山本南に向ひて、八幡の御社(遠石八幡宮)居ます。その御前の浜の潮干の方、遥かなる沖に大なる石(影向石のことか)の先上がりて見え侍る。是を遠石とは申すとかや。『人こそ知らね』とぞ言はまほしきや。此の御神にも上矢一つ奉りぬ。
其の日(9/23)は暮れぬほどに、富田といふ浦に着きたり。これも北西をかけて入海遙かにて、小島どもの名も知らぬが、いくらもうちつづききたり。其の中に、又いつく嶋といふも侍りしなり。釣りする海人の船ども、嵐に向かひて、忙はしげに来るもみゆ。雨気になりにたりとて、村雲の足早くきほひ来り。(嵐に向かって、慌しくやって来るのが見える。雨模様になったというので、足早い村雲と競争するように急いでやって来た。)
『夕潮につれてや来つるいとどしく足早船の富田の入海』 」
<外の海(富海)・周防国府>
9/24 「廿四日、周防の国府に着き侍り、道のほども、南は霞みいでたる末に、嶺どもの墨絵に書きたるやうみえたる、その麓に大なる嶋は姫島とて、豊後の国なるべし。高崎の城(大分市神埼高崎山)などいふも雲居遙かにうち霞みつつ見えたり。かの住み所など思ひやらぬにしも侍らず。(注:この城中には既に了俊の息子義範が入城し南朝方と攻防が展開されていた。)
この海面は波いと高し。これより外の海になりぬとぞ申すめる。やがて浦の名をも、外の海(とのみ:富海)といふなり。磯際より九十九折りに上る坂あり。橘坂とぞいふ。
『荒磯の路よりなを足曳きの山たち花の坂ぞ苦しき』
此の坂越え過ぎて、西の麓に入海(三田尻湾)あり。東西に山さし廻りて、其の前に島(向島:ムコウジマか)あり。西東の間に、二つの渡りありて、舟どもこれを出で入るなめり。なを沖の方にあたりて、木繁りたる小嶋ども七つ八つばかり並びてみゆ。北の磯際に、人の家居有て、ここを国府(国衙)と申すなり。猶北の深山に沿ひて、南向きに天神の御社(松崎天満宮)たてり。御前の作道(新たに作った道)は二十余町斗(約2KM)浜端まで(三田尻付近まで・のち萩往還)見えたり。そのうちに鳥居二つ立たり。御手洗川は道に沿ひて流れてけり。橋など架けたり。その西南にさし向ひて、一重なる松山の侍るを桑の山(桑山:くわのやま)とぞいふ。麓に松原(鞠生松原・まりふまつばら)遠く並み立ちて、あたりは方浜(防府市浜方)とて、塩焼く所なり。(アト和歌省略)」
(注)近世萩藩は浜方から南西方向に大規模干拓を行い、入浜式三田尻塩田を築く。
<大崎の浜・岩淵・香河(嘉川)>
10/7 「朝月は此の国府にて暮れて、神無月(10月)の七日の寄る深く立ちてなを干潟の路を行くに、島々入江ゝどもの、いふばかりなく目もあやなる所々うちつづきたり。 大崎の浜・田嶋といふ方は、うち煙りたるやうにて、曙の空のどかにて、波の音も聞こえぬほどなり。芦辺の鶴(たず)の明けぬと鳴く声のどかなり。
『大崎の浦吹く風の朝凪に田嶋を渡る鶴の諸声』
干潟を行きかかるほどに、『潮満ちぬべし』とて、北に沿ひて、いささかなる山路(佐野峠)になりて、岩淵といふ所に出でたり。此の方も猶、なた嶋潟(名田島)とて、遠き干潟也。
今夜は香河(嘉川・賀川)とかや申す所にとどまりぬ。竹の一村侍る見越に、島の近ゞと見えたるを、この里人に問へば、梅が崎(江崎:雨乞山・御伊勢山・蟹が淵周辺か)といふ。(アト略)」
(注)椹野川左岸名田島の干潟に対向する嘉川の蟹が淵に、慶長8年(1603)10月減転封の毛利輝元の大艦が上陸。周防国山口に仮住居を定め萩築城の工事を進める。翌9年萩城未完のまま入城。
<長門厚狭の郡・羽生(埴生)>
10/8 「八日は雨降りながら、いまだ明けたたぬほどに出でて、峯へ登りゆくなど、いふばかりなし。砂子(いさご)だにもなくて、さながら岩を延べ敷けるうへに(川底の砂さえなく岩を敷いたような)、山川の流れ来つつ、底もあらはに身ゆる岩淵に、漂ふ木の葉の色も、げにぞ『秋は限り』と見えぬる。(長門・周防国境の山中から二俣瀬・船木峠付近までを指す) 大方の、山のたたずまひは、東路の小夜の中山覚えて、それよりは今少し蔭深く、物心細き山路なり。日中ばかり、この山を越へて、厚狭の郡(厚狭大字郡)といふ里に付きぬ。昔、板垣のしろと申しける山際に、寺の侍るに、今宵はとどまりたり。(あと略)」
10/9 「明けぬれど、なお雨風やまず。 (中略) それよりは、山に分け入りて、海の端(へた)にうち出で侍りぬ。ここを羽生(埴生)とかたや申すなり。南は浦浪高く立ちて雲深き絶え間、山近く見えたり。豊前国なるべし。 (中略) 俄に霰(あられ)かき乱れて、西吹く風荒ましく吹き落ちつつ、笠をだに取りあへえぬ程なり。とかくしてうすは潟(宇津井)といふ干潟にうち出で侍りき。霰(あられ)は少しやみて、又雪降りきつつ、干潟の砂の色も、ことに見ゆ。(アト略)」
<小月・長門国府>
10/9 「塩(ママ)満ちきつつ干潟はえなむ通るまじく侍るとて、又山路になりて、小嶋(小月)といふ浦里に出でたり。松原を遥かに行き過ぎて、長門国府になりぬ。北浜(印内付近)とて東南に向きて家居あり。この里一村過ぎて、神功皇后の御社(忌宮神社)の前に出でたり。御社は南に向きたり、それより山の艮(うしろ:北東)に出でたる尾上を御かり山といふなり。この浜のわだ(入江)に州崎の様に出でたる山侍りき。串崎(長府宮崎町)といひて若宮(豊功神社:とよとこ)のたたせ給ひたる所なり。其の東の海の中に、十余町ばかり隔てて、嶋二つ向へり。古の満珠・干珠なるべし。今は奥津(おいつ)・平津(へいつ)とかや申すめり。(アト壇ノ浦・各宮参拝等省略)」
(注)古の満珠を今は奥津と記す。
(注)長門国府の省略部分には、多くの大型軍船が西へ向け通過し、彦島の福嶋の港には、松浦(唐津)へ出航のため多数の上松浦党や了俊弟頼泰の軍船が待機していたことが窺われる。
<赤間の関・なべの崎(南部)>
11/29 「霜月(11月)の廿九日、長門の国府を出でて、赤間の関に移り付きぬ。火の山とかやいふ麓の荒磯をつたひて、早鞆の浦(関門海峡最狭部)に行くほどに、向かひの山は豊前の国門司の関のうへの嶺(企救半島・古城山)なりけり。海の面は八町とかやいふめり。潮の満ち干のほどは、宇治の早瀬よりもなを落ちたぎりためり。 (中略) 赤間の関の西の端に寄りて、なべの崎とやらんいふめる村(南部・現南部町付近)は、柳の浦(門司柳町)の北に向ひたり。此の関は、北の山際に近く、家とならびて岡のやうなる山あり。亀山とて男山御神(亀山八幡宮)のたたせ給ひたり。その東に寺あり。阿弥陀堂(のち赤間宮)といふ。安徳天皇、この浦にかくれさせ給ひて後に、知盛の卿女の少将の尼とかやいひける人、ここに残りとどまりて、平家の跡問ひけるを、後に彼の御菩提所になされて、安徳天皇の御尊影をはします。(アト省略・完)」
永和四年(1378)三月十八日於筑後国竹野庄内善道寺陳書之了
都よりつくしに下侍るほとの路の事を馬上にて書付たり
了俊
(注:応安四年の自筆本を永和四年に了俊自ら改めて書写したものと思われる。)
【追記】 今川了俊(貞世)の紀行文「道行きぶり」の【参考】追加掲載について
応安4年(1371)今川了俊の紀行文「道ゆきぶり」(京都から赤間関までの紀行文)について、赤間関までの通過ルートを本稿に追加掲載することにしました。
今川了俊の「道行きぶり」については、当初長門埴生浦と安藝広島の干潟地関係のみ、家久のルートとの関連記載にとどめていたのですが、安藝本郷・沼田付近で中世山陽道及び付帯間道及び地勢について比較検証するのに最適ではないかと思ったためです。九州探題として南朝方勢力下の九州平定を目的に軍勢を率いて大内氏等諸將を結集しながら西下する了俊と伊勢参り道中の家久の目的は大きく違い、時代も200年前のことですが、重複ルートの通過・宿泊地の地勢等について、結果は別にして比較検証してみるのも面白く興味あることだと思います。
このため、一部のルート図が複雑になりますが「道行きぶり」関連地名等を追加補記し、ルート図のみ先般2014/10/上旬にアップしたところです。「道ゆきぶり」本文及び若干の関連注釈については、10月下旬までには各区間末尾に【参考】として適宜掲載予定です。(本項2014/10/13追記)
---「道ゆきぶり」関係、2014/10/20掲載完了。
<安藝宮島から陸路、鞆へ向かう>

天正三年(1575)三月
・3/25 「一 廿五日、打立候へは、兵庫助・源介かはんといへる禪門同舟にて、すゝをたつさへられ、舟中にてこうたなと様遊らん、さて左の方に地(ち)のこせ(*御前)・(佐西郡地御前)とて、明神の母にてましますとて宮つくり有、それより廿日市といへる町におしつけ、各ゝ打つれ一見、町の上に櫻尾とて森(もり)殿拾(*舎)弟の城有、
其ふもとにて送りの衆にいとまこひし行は、草津(佐西郡)といへる城有、其麓に町有、亦次にこひ(*己斐)(佐西郡)といへる町有、猶行て、右の方に遠くにほ島(仁保島)とて城みえ侍り、又左の方に、左藤(佐東郡の佐東)の金山とて城(金山城・銀山城)有、
(さて)衹園原(佐東郡)の町、古野藤左衛門といへるもののゝ所に一宿、」
(注)*森殿・もり殿:この時代毛利氏のことを「森・モリ」と言う場合が多く、別に間違いではない。文書でも両方使われていたようである。大内氏はオオチと言われていた。鎌倉幕府の政所別当大江弘元は、鎌倉幕府守護地頭制の確立等、幕政確立と運営に多大な功績を上げ、頼朝から相模の森庄(厚木市一帯)を賜るが、四男季光(すえみつ)に森庄を譲り、季光は毛利氏を名乗り毛利氏祖となるが、森庄も毛利庄と名を替えた。また、江戸期の萩藩士は当主毛利家のことを「江家・ごうけ」と呼ぶ。家久の記した地名についても、「先達」が知っているのは少なく、現地で聞いて書きとめていたものが多いようようである。このためアテ字が多いが呼び名はかなり正確である。
「地のこせ(*御前)」についても、地御前(じごぜん)と注釈しましたが、本当は「地(ち)のこせ」の方が純粋・無垢の正解なのではないでしょうか?
(注)地(ち)のこせ(御前):地は嚴嶋の対岸本州側の意。御前は嚴嶋宮の前のことを指す。現在は地御前(じごぜん)と称す。
(注)桜尾城:鎌倉時代吉見氏によって築かれたといわれ、代々嚴嶋神職の居城(海城)であったが、大内氏配下の時代を経て天文22年(1553)毛利元就の時代重臣桂元澄(桂太郎の祖)を置いたが、元就の四男(側室の子で穂田氏へ養子)穂田元清の居城となる。元清はのちに主に小早川隆景の配下として備中方面において宇喜多・信長軍と善戦し、のち元清の長男秀元が毛利輝元の養子となり毛利姓に復す。秀元は防長移封のとき輝元隠居し、萩藩主となるがのち輝元実子秀就成長により初代藩主となり退座する。清末藩・長府藩主にもなる家系。
(注)草津城:広島デルタ地で後述。
(注)佐東銀山(金山)城:安藝武田氏居城。永正14年(1517)山陰の尼子氏と結んだ当主武田元繁は安藝有田で毛利元就に破れ討死、以後武田氏衰退となる。天文10年(1541)毛利元就は吉田郡山城の戦いで尼子軍を撃退するとともに銀山城を攻略、大内氏城番として冷泉隆豊が入る。天文23年(1554)元就は嚴嶋の戦いの前哨戦として銀山城を支配下に置いた。佐東郡衹園武田山にあって、広島三角州一帯を治める要衝であったが、毛利輝元広島城築城後廃城。
・3/26 「一 廿六日、辰尅(8時頃)ニ打立、ひきミたう(引御堂・佐東郡古市の古名)といへる町を打過、亦ミとり(みどりい・佐東郡緑井)といへる町を通り、 (さて) 高松(可部:高宮郡)の城(三入高松城)とて有、其ふもとにて人ニとへハ、是ハあらぬ道といへる間、跡のことくふミ帰り、八木(佐東郡)といへる渡にて渡賃、猶行て遊坂(*湯坂)といへる大坂を越、しハ(志芳・志和)の内西(志芳西・加茂郡)といへる村、ミと(三戸)の弾正の所へ一宿、」
(注)高松の城:安藝高宮郡三入高松城・熊谷氏居城。安藝武田氏の家臣であったが、熊谷信直のとき毛利元就に従い毛利氏重臣となる。信直の娘は元就の二男吉川元春に嫁ぐ。のち毛利氏防長移封に従う。
(注)衹園山本を出て北上し、緑井(みどりい)を過ぎて八木(やぎ)の渡しから太田川を渡り、深川(ふかわ:高宮郡)から狩留家(かるが:同)、ここから東南方向に湯坂峠経由志芳西(志和西:賀茂郡)、西條を目指している。太田川を渡り可部を過ぎた付近(三入の手前付近)まで北上し道を間違えたことに気付き、可部(高宮郡)から直近の深川へ下がれば近道だが、わざわざ八木まで下がりここから太田川を渡り、深川(高宮郡)から太田川支流三篠川沿いに中郡古道(なかごおり)を狩留家まで上がり、ここから東に湯坂峠を越え賀茂郡志芳西(志和西)に出て三戸彈正の所に一宿。三戸弾正は志芳東天野氏家臣。八木には八木城があった筈だが記載が無い。
(注)中郡古道(白木街道):矢賀から馬木峠を北上し、上深川に出て三篠川沿いに狩留家・白木・井原・向原を経て安芸吉田郡山城(毛利氏居城)に至る古道。のち毛利輝元広島城を島普請築城のときから安藝吉田を結ぶ重要な道となる。
ここは当初、海田・中野・瀬野・八本松の山陽道に拘り、古市(引御堂)から太田川東岸の安芸郡戸坂に渡り中山峠を南下、府中の矢賀から海田・中野・瀬野・八本松の山陽道が正規のコースでは?と先入観を持ったため、家久一行は古市から可部まで間違って北上したために、八木の渡しから深川(ふかわ)に渡り、狩留家、湯坂峠、志和西のコースをとったと思ったのですが、当初から選定されたコースのようで三戸弾正の所に宿泊しています。安藝郡戸坂の中山峠を南下し矢賀から海田、瀬野方面に出るよりも断然近道です。30年ぐらい前に、岡山・尾道方面から川内・古市方面に帰るには西條から瀬野川・海田方面国道大渋滞のため、八本松、または志和西から志和掘、志和口まで北上し白木街道を狩留家・深川まで南下、矢口から大田川を渡っていましたが、海田から広島市街地経由で北上するよりも、1時間半も短縮できていたことを思い出しました。この湯坂峠越えルートを知っていたなら2時間以上短縮できていたはずですが、当時の湯坂峠車通行は不可で市販地図に×印があったかもしれません。
毛利輝元が比治山から干潟のデルタ地帯を眺め築城地の選定を行い、大規模な島普請を行い、未完の広島城に入るのが天正十九年一月のことで、八木の渡しを賃渡りし、深川から(中郡古道:白木街道を)狩留家、湯坂峠、西條に向かうのは、別におかしいことではなかったようです。逆にこれが当時の主要内陸ルートであったかもしれません。そういえば、家久は仁保について「仁保島」と言ってますね。この仁保一帯は昭和の戦後もハス畑の沼地が多く残っていたところです。海田も名前の通り往時は深く入海していたようです。江戸初期の西国街道も当初は広島城の北側、二葉の里(JR広島駅北西直近)を通っています。
*広島周辺の古代山陽道について
・往古の広島デルタは大きく入海し、干潟、沼地で、往時の山陽道は廿日市を過ぎて五日市から北上、ほぼ現在の山陽自動車道沿いに、八幡、石内、伴、長楽寺、安、古市から大田川を渡り、左岸の安藝郡戸坂から中山峠を矢賀(府中町)まで南下し、ここから東に甲越峠を畑賀にでてから中野、瀬野、八本松、寺家(じげ)、西條へと向っていた。
厳島合戦で毛利家臣草津城主児玉就方は元就配下の川内水軍衆を率い、配下参戦の村上水軍とともに勝利に貢献しています。川内の南付近から衹園原付近まで大きく入海、三角州だったようです。余談になりますが、川内の河砂畑はこれに適した広島菜漬の産地で有名なところです。
(注)川内水軍は拠点が川内にあったわけではなく、安藝武田氏のときから往時の広島三角州の内海の警固衆として、毛利元就の時代は広島三角州周囲の各城武將に警固衆として属していたようである。草津城主児玉就方は元就の命によりこれを川内水軍として統率する。川内水軍は元就の尼子氏富田城攻略最終戦のときにも美保関で尼子氏兵糧ルートの遮断に活躍し勝利に貢献する。
*この時期、金に余裕のあるものは、廿日市、五日市周辺、あるいは草津から船で海田へ渡っていた。家久一行は己斐から大田川西岸部を八木まで北上、深川に渡り、狩留家から湯坂峠を越えて志和西から西條に入る。また、応安4年(1371)九州探題として南朝勢力下の九州征討を目的に西下した北朝の今川了俊の軍勢は、途中兵を募りながら西下するが、海田に約20日間滞在し兵を募るがかなわず、デルタ地帯の干潟か海岸沿いを防長へ向け西下している。
<玉万里の坂道で「女盲」(をんなめくら:瞽女・ごぜ)の行列と行き合う>
・3/27 「一 廿七日、打立、椛坂(かぶさか)といへるを越、右の方に城(米山城・こめやま)有、又今坂といへるを越え、跡をミれは堀(堀・保利)の城(志芳掘天野氏)とて遠くみえ侍り、又行て左の方に白山(城山城)とて幽にみえ、猶行て、さいちやう(*西條)の四日市(賀茂郡西條)といへるを打過、大なる岡を越行は、女めくら十七人烈立来るに行合、行て玉利(田万里:沼田郡)の町を打過、宗滿といへる入道の所に一宿、」
(注)シワは中世まで志芳、江戸期以降志和と表記した。天野氏は藤原南家工藤氏の一族で伊豆国田方郡天野郷に居住。鎌倉期には遠江、相模、駿河、その他に繁延。戦国時代は三河天野氏、安藝に下向した安藝天野二氏の三氏に大別。
(注)志芳東天野氏・米山城主(こめやま)(安藝志芳荘:生城山天野氏):応仁の乱に西軍大内政弘に従い畿内を転戦、天野興次のとき大内義興の覇下として永正船岡山合戦(1511)に活躍するが、興定のとき尼子氏安藝進出に従い、のち大内義興・義隆親子安藝奪回に降伏し、のち米山城に復帰。元定のとき嗣子なく永禄12年(1569)元定死去後内紛するが毛利元就七男千虎丸を養子として米山城に送り、のち毛利元政。防長移封により周防熊毛郡三丘(三尾)領主。のち一斉領地替えで右田毛利祖となる。右田の宍戸氏が三丘に入る。
・志芳堀天野氏(安藝堀荘:金明山天野氏):福原氏と姻戚関係を持ち毛利氏との関係を深める。隆重のとき尼子氏との戦いで攻略後の月山富田城代となり尼子氏奪回戦に奮戦・功あり、出雲国熊野城主。元嘉のとき防長移封により吉川広家(初代岩国領主)の組下として周防椙杜郷の内、久原・長野等を知行。久原の久田(くでん)に館(平城)。午王ノ内の黄檗宗通化寺に隆重夫妻、元嘉夫妻墓。のち、明治になって天野氏静岡に帰郷の際、通化寺と合併し廃寺となる久田の黄檗宗長命山円月寺は天野氏の菩提寺。(廃)円月寺墓地に天野氏一族の墓。
(注)白山城:安藝平賀氏居城(東広島市:賀茂郡高屋町白市)。大内氏安芸拠点東西條鏡山城の戦いでは白山城の平賀弘保は大内氏、この北方頭崎城の嫡男興貞は尼子氏配下となる。(詳細、拙筆サイト「周防国の街道・古道一人旅」の「通化寺」蔵田氏関係参照。)
(注)志和西から東へ二つのゴルフ場(山)の南麓付近から山陽自動車道を南に下がった付近一帯が椛坂(かぶさか)。家久一行が進んだ山陽道付帯間道は、狩留家から湯坂峠を越え志和西へ出て、二つのゴルフ場(山間部)の南麓あるいは中間を南下し椛坂に出てから北東へ向けて志芳東天野氏米山城の北側から再び南東へ今坂を下り、山陽自動車道とR486(旧R2・旧山陽道)の中間を八本松寺家(じげ)から西條へ向かい、JR西条駅の構内付近を斜めに横断し駅前付近の西條の中心、四日市で山陽道に合流、西條を抜け、田万里から新庄・本郷へ向う。
(注)「女盲(をんなめくら)」:ごぜ(瞽女)は、古くは室町時代・1500年末頃の「七十一番職人歌合」(しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ:要検索)二十五番右に「女盲」として登場するが、この盲目の女旅芸人達は何処から何処へ向かっているのだろうか。この時代から彼女達の生ける総べは全国を旅して歩くしかないのである。この盲目の女達が険しい玉万里の山道を一列になって登りながら、次第に近づいてくるのを見て家久君はどう感じたのだろうか。何故か凄絶にして鬼気迫る姿に見えて仕方ないのである。
それにしても十七人とは多い。
・3/28 「一 廿八日、雨ふり候て逗留、」

*沼田本郷入海部、誇張表示
・3/29 「一 廿九日、朝立行けは、和田崎(?不詳)とて町有、其次に左の方ニ高山(新高山)とてぬた(沼田)の城有、こはい(*小早)川殿の御座所と所の人いへり、其麓にぬた(*沼田)川とて渡賃、猶行て七日市(沼田本郷:本郷市北西端?)とて有、次に新町(?本郷市北端・仏通寺川南付近か?)有、其邊に出水有、おの はた(裸)ニ成て渡候、其むかひにて有所、一閑より餅たへさせられ、それを片手に持くひのやう、たひの道すがら(道すがら食いながら)、備後の内三原(備後沼田郡)の町、又左衛門といへる者の所へ一宿、」

(左)新高山城 ・ (右)古高山城 (山陽道沼田川・本郷橋右岸西詰から北方向写す。)
*中世初期頃まで新・古高山城間は、北西背後付近まで入江となって入海していた。
(注)新高山城(にいたかやま):この時期、小早川隆景は沼田川右岸の新高山城を居城としていて三原城に入るのは後のこと。新高山城に対面する城は古高山城。毛利元就は沼田氏が滅んだあとの沼田(ぬた)荘地頭から続く小早川氏に三男隆景を送り、竹原・沼田を掌握する。小早川隆景は天文21年(1552)に居城を古高山城から新高山城へ移す。東側正面から見れば、古高山城よりも大きく台形の要害に見える。小早川隆景は天正12年には居城を三原に移し、町屋や寺社を三原に移す。
*この時期、九州・中国の全ての山城は居館も山上の城郭に構える。館を下に構えることがあるが、これは隠居した場合。これに対し関西以東の城は必ずしも当主居館が山上にあるとは限らない。
(注)七日市・新町:七日市の地名は今はない。瀬戸内の三原に向けて流れる沼田川(ぬたがわ)支流梨名川左岸本郷町下北方の山陽道筋にある史跡「横見廃寺跡」の東に隣接する古城高木山城跡(沼田城:平家物語巻九に文出の沼田次郎居城)付近の下北方集落ではないかと思ったが、家久君は「新高山城を見て沼田川を渡ってから「七日市・新町・出水有り」と記す。
現在の三原市本郷町(沼田本郷・近世の本郷市)の中心は沼田川左岸三角州に位置する。ここは沼田川と沼田川支流梨和川・仏通寺川で構成される内陸部氾濫低地三角州で、この三角州に当時古町と新町が形成されていたとは考えにくい。小早川氏が古高山城を居城としていたときに形成されていた近世本郷市の北西端の集落ではあるまいか。さらに本郷と三原の中間に位置する三原市沼田は北側から本谷川、南から天井川が沼田川支流となって注ぎ、中世のこの付近は新高山城・古高山城の間の沼田川も入江で、新旧二つの高山城の西背後付近まで大きく入海していた。新町は近世本郷市の前身として形成されつつあった三角州北部付近から仏通寺川付近にかけての高台ではなかろうか?
家久君は下北方(の古地)から沼田川を渡り、前日の雨で出水していた三角州の内、仏通寺川付近を褌姿で渡り、新良(しんら)の南端から小坂を北東に進み、「新良」から三原に通じる県道155号線の京覧カントリークラブの北西端付近で県道に合流し三原の北西部から三原市西野・宮野に入ったのではなかろうか。言い換えれば、アバウトではあるがこれが中世の実質的な山陽道であったかもしれない。これが、今川了俊の「道ゆきぶり」との比較検証の動機になったのではあるが...。
新高山城・古高山城南麓付近 *高誇率:1.8
念のため、「道ゆきぶり」を本稿に追加掲載時、三原市に照会してみると、「新町」は下北方の南方、沼田川右岸の少し下流(入江の南部)に位置する「本市」と思われ、小早川隆景が新高山城に居城を移してから発達した地で、恵美須社もあるそうだ。しかし、下流域になればなるほど沼田川あいは入海・干潟部は広くて深くなるわけで、疑問も残る。恵美須社は江戸期になってからと思うが、この沼田川右岸の地は三原の発達につれ次第に廃れていっただろう。ここは、家久君の記述に素直に従おう。電話照会の過程で今川了俊
・家久 ・近世本郷市がごちゃ混ぜになったのかもしれない。
*本郷は沼田荘の中心「本荘」の意で、沼田本郷。西部の新庄は沼田荘新荘の意。近世山陽道:西国街道は本郷市から沼田川左岸沿い北山麓をほぼ現在の国道に沿って三原へ向かう。

応安4年(1371)の今川了俊の「道ゆきぶり」に於ける「沼田」長期滞在は、沼田川(入江)右岸・入海南西岸の下北方及び南方付近と思われ、蟇沼(ひきぬ)から北上したと思われる。下北方・南方は当時大きく入海或いは干潟化しつつあった海岸の南西沿岸部に位置する。また、糸崎浦から「沼田」に入るに海行であったか陸行であったかも文脈から確定できないが、三原付近は海行したと思われる。ここは三原市史やその他の文献で、じっくり地勢確認の必要があると思うが未確認。当方の住む地は異国の片田舎なのだ。今回、本稿掲載にあたり、新高山城の写真撮影と本郷市を慌しく散策した後、美ノ郷 ・今津から山田経由鞆の浦まで実査したのみなのだ。山田の山間部で道に迷い、九十九折り急坂からの鞆の浦写真撮影は薄暗くなってしまった。
(注)餅を片手に食いながら歩くのは、気になるようである。「一関」は従者。「一関」は罪なことをしたものだ。家久君は餅を片手に持って食いながら歩いたため注意力散漫となり、もう一箇所地名を書くのを忘れたようだ。おかげでこちらはいい勉強になった。
*「七十一番職人歌合」七番右に「餅売(もちゐうり)」。同十八番左に「饅頭売(まむぢううり)」。
・4/1 「一 卯月卯日、打立行は、やかて三はら(*三原)の城有、次に左の方に高盛(桜山城か?三原城の北背後に対面する桜山頂上)といへる城みへ侍り、猶行て高丸といへる城(?不詳)有、鬼なとも住けんとおそろしくて、今津(備後沼隈郡)の町四郎左衛門といへる者の所ニ一宿、」
(注)三原城・桜山城:小早川隆景は三原の海城を整備し、天正12年には新高山城から三原城に移るが、山名氏のときからあったと伝える桜山城についても三原城の後詰として整備し、三原海城と一体化した要害とする。
(注)高丸といえる城(不詳):三原から今津の間には小早川氏の支城として、三原市中之町を過ぎて猿掛山城、茶臼山城。尾道市美ノ郷に入って大町山城・兵庫城等の山城があるが詳細不詳。
*山陽道は、安芸西條から新庄・本郷に出て、北北東に真良(しんら)・備後國に入って久井・御調(みつぎ)・府中・万能倉(駅家)・御領・備中國に入って井原・矢掛・総社 ・・・、
家久一行は鞆へ出るため沼田本郷から備後の三原に出て、美ノ郷(尾道市北部)経由、今津(旧松永市今津:沼隈郡今津)へ向う。当時の三原は沼田郡に属す。
【参考】応安4年(1371):今川了俊「道ゆきぶり」
今川了俊の紀行文「道ゆきぶり」は、了俊が九州探題として鎮西平定の重大な使命を帯びて京都を出発し、赤間関までの紀行文ですが、200年の時代差と目的の大きな違いがあるにしても、通過地の地勢状況がより理解できるのではないかと考え、本稿に追加「参考」掲載することにしたものです。
和歌60種を含み赤間関で終わるこの「紀行文」のうち、「京都から備後尾道」までは通過・宿泊地名等を簡潔に、「備後尾道から長門赤間関」までは地名・地勢等に関係すると思われる部分を原文抽出で記載します。
引用文献:岡山大学学術成果リポート:〔今川了俊「道ゆきぶり」注釈〕・著者:稲田利徳
<京都から備中屋影まで>
(注)2月20日に京を出発してから、次に月日が記入されるのは5月19日に尾道から沼田(本郷)に移動した所で、その間の各地滞在期間は不明。備中屋影(矢掛)までの宿泊地は(・着きぬ・到りぬ・とどまる等から想定できるもののみ)太字記載。
京都-桂川-山城山崎 - 津の国(摂津)芥川(高槻市芥川)-瀬川(箕面市瀬川)-小屋野(伊丹市昆陽野)-武庫・武庫の山(武庫川河口から西宮にかけて海辺一帯の地、背後の山を武庫山のち六甲)-打出の浜・芦屋-摂津御影の松原(神戸市御影)-生田川-湊川(神戸市)-須磨(神戸市)-関屋の跡(神戸市関屋町)-播磨大蔵谷(明石市大蔵谷)-明石の浦-印南野(明石から加古川周辺一帯)-清水・金崎(明石市)-いそき(龍野市の内揖保崎)-恋という里(龍野市の内小犬丸保)-備前かがつ(かがと・備前市香登・長船町)-福岡(同)-みのの渡(岡山市北方三野)-辛川(からかわ・岡山市西幸川)及び吉備の中山(備前・備中の二社吉備津彦・吉備津神社の中間、中山)-軽部川(高梁川)-備中屋影(矢掛)
(注)武庫山の由来について、武庫の地(武庫川河口付近から西宮にかけての海辺一帯の地)で、
「川面(づら)にそひて、木深く物ふりたる山あり。鳥居たたり。そのあたりの人に尋ね侍れば、これは昔、足姫(神后皇后)の唐土(もろこし)の三の国(三韓)したがへ給ひ、帰り給ひける時、この山に鎧・冑など埋み給ひけるより、やがて武庫の山(のち六甲)と申すとなむ。(アト和歌省略)」
<備中屋影(矢掛)から備後尾道の浦・吉和>
「(前略)足引きの山分けいりて尾道の浦に到り付きぬ。この所のかたちは、北に並びて浅芳(あさじ)深く岩ほ凝りしける山あり。麓にそひて、家々所狭く並びつつ、網干すほどの庭だに少なし。西より東に入海遠く見えて朝夕潮の満干もいとはやりか也。風のきほひにしたがひて、行き来る船の帆かげも、いとおもしろく、遥かなる陸奥・筑紫路(を彷彿させる)の船も多くたゆたひゐたるに、一夜の浮き寝する君(遊女)どもの、行きては来ぬる水手(かこ)の浮かびありくも、げに小さき島にぞまがえる。・・・(アト略)」
このあと、歌島(向島)の数件の塩屋(塩を作る作業小屋)の塩焼く煙等の記載がある。
5/19 「備後の尾道より、安芸国沼田といふ所に移り侍り。道は南東に出でたる山あり、干潟を隔てたり、戌亥(北西)に沿ひて磯路遙かに行くに吉和(尾道市吉和)といふ所あり。ほどなく夕になりぬ。 『日も暮れぬ夕潮遠く流れ葦の吉和が磯に屋戸や借らまし』 その海中に木深き小嶋二つ並びたり。これなむ鯨島(向島の西に隣接の岩子島西にある二つの小島)といふなり。年毎の師走に鯨といふ魚多く寄り来つつ、又の年の睦月に又帰り侍るとなむ。『これは、ここに居ます神の誓いにてかく侍る』と、海人どもの申すなり。それより猶南に大海に出づる境をば布刈の浦(向島と因島の間の瀬戸)とぞいふなる。(アト略)」
<糸崎・沼田(本郷)>
(ここは長くなるが、家久君の道筋にも関係する一節。三原の地名は当然でてこない。)
「北より南にさし出でたる山さきに、松や檜原繁りて、いとおもしろしき尾上(おのうえ)あり。糸崎とぞいふ。『かづきする海人の手引の糸崎は潮垂れ衣織るにぞ在りける』(注・かづき:水に潜り、貝や海藻をとること)
向かひに干潟を隔てたる山を因島といふなり。それ行き過ぎて備後と安芸国の境を出づる。横おれる山中に萱葺ける堂(蟇沼神社:本郷町南方蟇沼:ひきぬ)有り。此の麓まで入海つづきて、沼田川(ぬたがわ)の流れ落合ひたり。この河面に浮き出で(舟を漕ぎ出して)侍るほどに、日暮れはてて、夕闇の端山の影も、いとどたづたづしきに、蛍かすかに飛びちがひつつ、なにとなく物心細きに、この里へ松の火などともして来向ふ火影、川波にきらきらと映ろひて、鵜川だつ(鵜飼の篝火のような)心地ぞし侍る。
この所は、寿永(平安末期)の昔までは、海の底にて侍りけるとて、石のかたはらなどに、牡蠣といふもののうち付きためり。離れたる山ども、ここかしこに繁りて、いとおもしろし。此の川沿ひて、西に年古げなる松山の中に神の社一つたてり、甑(こしき)の天神(甑天神:本郷町下北方炭ケ岡)と申す。これは、かの御神(菅原道真公)、筑紫へ移され給ひける時、ここにて旅の乾飯(かれめし)まいらせたれける物の具に、甑(こしき)といふ物の残りとどまりて、今の世まで侍りけるなるべし。やがて、その甑をも、社に祝ひ奉りて、かたはらに置き侍るなり。又、そこにめでたき清水有り。これは、かの天神(道真公)の御手づから堀り出し給ひけると申す。
『我が祈る頼みもことに真清(まし)水の浅かるまじき恵みをぞ待つ』
此の山(前出の年古げなる松山)に並びて、田面の末の道の辺に、片岡(注:舌状に南に延びた岡がある)のやうなるところに、松や竹など繁くて、草の堂一つたてり(草葺の堂:廃横見寺と・古城沼田城址:平家物語巻九・沼田次郎居城)。平家の世に、沼田の某(沼田次郎)とかやが籠りけるを、教経(平教経)朝臣の、攻め落としける所と申すめり。此の南に、よろづの神々祝ゐ奉る中に、男山(八幡神・古城沼田城址の南方にある八幡宮:男山は枕詞)もいますと申す。」
(注)甑天神は菅原道真が使用した甑を里民に与えたので、社を建てこれを納めて道真を祀ったと伝える。
(注)本郷町南方地区の蟇沼神社や下北方地区の甑天神・沼田城(高木山城)址等の記載から当時の沼田荘(郷)の中心は、入海していた沼田南西側沿岸部の下北方・南方地区で、ここに滞在したと思われる。現在の本郷町本郷は沼田川本郷橋左岸(沼田川左岸)の氾濫原三角州一帯。三原付近から沼田の間は海行であったと思われるが文脈から確定できない。
*5月19日備後尾道より安芸沼田に移り、次に沼田を出発するのは8月29日なので、ここに約3か月余り滞在したことになる。
<入野・高谷(高屋)>
8/29 「葉月(八月)の廿九日、安芸の国沼田(ぬた)の里をたちて、入野(にゅうの)といふ山里を通り侍るに、此の所は、昔、小野篁(たかむら)の故郷とて、やがて篁(たかむら)とも小野とも申し侍るとかや。大なる山寺(篁山・竹林寺)あり。今夜は高谷(高屋)といふ里にとどまりぬ。」
(注)入野経由高屋へ向かったのは、沼田で小早川氏と接触したあと、平賀氏と接触するためであったか?
<高屋から瀬野・海田・佐西(廿日市)>
8/30 「又の日(翌30日)は大山(加茂郡八本松大山と安芸郡上瀬野を結ぶ大山峠付近)といふ山路越え侍るに、紅葉かづゞ色付わたりて柞(ははそ)・柏などうつろひたり。日陰だに洩らぬ山中に、谷川こなたかなた流れめぐりて、岩たたく音心すごし(ぞっとする)。伏木などの横はりつつ、(谷)深き上を、さながら道にする所も侍り。 紅葉ばの朱(あけ)のまがきにしるしかな大山姫の秋の宮居は此の山越え過ぎて、瀬野といふ里あり。ここもみな山間の細道なり。駿河の宇津の山の面影ぞうかべる。
晦日は、海田とかやいふ浦に付きぬ。南には深山重なりたり。麓に入海の干潟はるゞと見え、北の山際に、所々家あり。ここに廿日ばかりとどまりて、長月(九月)の十九日の在曙の月に出でて、潮干の浜を行くほど、なにとなくおもしろし。さて佐西(さゝい)の浦(廿日市)に付きぬ。」
<佐西(さゝい)、以西>
前編、 【 長門赤間関~安藝宮島 】の宮島周辺に掲載。
備後三原から美ノ郷・今津経由、鞆から舟で兵庫・西宮へ向かいますが、この区間は当時の瀬戸内海の活況、多数の関や海運状況がよく理解できます。
<鞆に到着、ここから海行>
天正三年(1575)四月
・4/2 「一 二日、打立、山田といへる町を打過、やかて山田の城(一乗山城・因島村上氏)有、行て備後のとも(*鞆:備後沼隈郡)に着、善左衛門といへる者の所に徊らひ、舟よそひの間、其邊一見し、ともの城(大可島城?)有、それより出舟候へは、島々數をしらす、其の中をこきとをり、左の方ニ備中・備前、右の方ニ四國のあハと遥にみえ、それよりしはく(*塩飽)ニ着、東次郎左衛門といへる者の所へ一宿、」

山田の一乗山城と沼隈ダム 九十九折の急坂を下りながら鞆の浦遠望
(注)ともの城:大可島城(因島村上氏水軍城)。別に鞆城があるが、これは天正五年毛利氏将軍足利義昭を迎え築城。
(注)・塩飽(讃岐那珂郡)は、塩飽諸島の「本島」が中心島だが、「広島」に江の浦という港があるので、4/4記載、「こう(*江)といへる浦」関連から「広島」着か?→*「訂正」:塩飽は本島が正解。
(注)*当時の船は、順に、小早船・関船・屋形船・安宅船に大別されるが、家久らが乗った船は「関船」を少し大きくしたニ階層底の天井板敷きの大型貨客船であったと思われる。
・4/3 「一 三日、しあく(しはく)見めくり候、」
・4/4 「一 四日、しはくの内かう(*江?)(甲生) といへる浦を一見、それよりしはくの人躰福田又次郎といへる、其館にて鞠遊有、不存なから無方鞠かと見及候、いつれも足は天にあかり、其外見苦敷事ハ申はかりなく候、」
(注)*かう(*江)といへる浦は、甲生といへる浦が正解。本島の泊の湊付近から東方面が本島町甲生で、現在はコウショウと称す。本島の北東部が笠島地区(笠島浦・福田氏居城笠島城)。古くは塩飽諸島の「本島」一島を「しわく・塩飽」と称す。本島の西に隣接する「広島」に「江の浦」があるが、これは「エノウラ」。
(注)福田氏の館:塩飽水軍笠島城主福田又二郎
(注:鞠か蹴鞠のようなものを、分からんがやってみたが、何れも足を天高く上げてはずかしくて見苦しい。ここは第一人称で捉えるべき。
*意外なことに、家久君は蹴鞠の正式な遊戯方法を大方ご存知のようだ。無方鞠と評している。福田氏も我流とはいえ、蹴鞠を知っているのだ。戦国武将らしい豪快な足上げ、足蹴りであったか。 (注:京都4/22・5/25参照)

・4/5 「一 五日、未刻(14時頃)ニ舟出候、左の方ニ備前の小島、右の方に四國、扨(さて)行てひゝ(*日比)の関とて來たり、又のう(*能)嶋関とて來たり候、いつれも船頭の捌(さばき)候、其夜ハのう島(直島?:なおしま)といへる所に舟かゝり、」
(注)日比(ひび):備前児島郡日比・玉野市日比
(注)直島?は塩飽~牛窓の中間に位置する。宇野港(玉野市宇野)の目の前だが香川県。
原文注釈の(*能島)は不詳のため、直島として解釈。
・4/6 「一 六日、暁舟をいたし、海上も物うしまと(*牛窓)とかいへる所より関とても兵船一艘來り、船頭さはき候、其より申刻(16時頃)にうしまと(うしまど:牛窓・邑久郡)に船かゝり、うしまと一見、其未刻(?)舟出て、其夜ハおふた(*大多府ヵ)といへる一所(大多府島:備前和気郡)に舟かゝり、」
(注)通常の関守船とは違うようだ。ここも関守船と同様に船頭が捌く。
(注)其未刻(?)舟出でて:申刻(16時頃)牛窓に着き見学し、その後舟の用事が済んだので出船したと解釈すべきか?「未刻」は14時頃前後1時間なので意味不明。「未」は、「未(うれ)」として解釈したほうがいいと思うが...。
・4/7 「一 七日、暁出舟、左方ニしやくし(坂越)とて郷有、其次ニなは(*那波)とて亦村有、さて播广の内室の津(播磨揖西郡室津)に申刻(16時頃)に舟おしつけ、室一見、さて源兵衛尉といへる者の所へ一宿、」
(注)坂越(さこし・しゃくし):播磨赤穂郡坂越・赤穂市の東部坂越湾沿岸。現在は「サコシ」と呼称されているが、本来の呼称は「シャクシ」で、尺師・釈師と記すという。(要検索)
・4/8 「一 八日、あかし(*明石)へ上乘憑に(頼むに)、脇舟頭早舟にて越候間、滞留、」
(注)室の津で明石まで水先案内人を頼んだが、副船頭が小早でどこかへ出かけたので、帰ってくるまで滞留。
・4/9 「一 九日、順風なくて逗留、境(*堺)衆松井甚助・助兵衛なといへる者同宿、さて舟中にて寄合候、兵庫の衆亭主なとへ酒をすゝめ候、」
・4/10 「一 十日、境衆両人より酒得候、」
・4/11は、記載なし。
・4/12 「一 十二日、其邊一見候へハ、境衆すゝ(錫製の酒容器)をたつさへ來たり候て、路頭の御堂にて酒宴、」
<またもや、暴行事件発生!>
・4/13 「一 十三日、境雑説猥間、元舟ハ室に逗留由申候間、熊野衆・高野衆・日向衆・南覚坊寄合候て、岩屋舟(淡路岩屋籍の舟)一艘借きり候処ニ、船頭板をのせへき由申候、各ゝハのせましきとあらそふ処に、舟子雑言仕候、南覚坊取合候處に、一関善ふるまひにて、舟子のつらをうたれ候、舟ゟ(より)おり可申由申候ヘハ、地下衆
見(意見)候て、亥の刻(22時頃)に出船、
行て播广の内たちの(龍野)城とて有といへり、夜中こき通り、さて高砂といへるところにて夜明離候、」
(注)乗ってきた船の船頭が堺に何か危ないような、あらぬ噂があるので行きたくないというので、岩屋舟(淡路岩屋籍の舟)に乗り換えようとしたところ、船頭が(これは板を運搬する舟で、お前らを乗せるような舟じやない。と言った?かどうか知らないが)雑言を吐きもめたとき、南覚坊がとりなしたが、伴の「一関」が怒り船頭の顔をぶん殴る。ここで、家久は一関を咎めるどころか「よう、やった。」とほめる。「一関」は3/29に登場した人物。また、肥後の関所で関守をボコボコに打ち悩ましたとき、「召烈(列)たる族とも、此の方ハおの何事なく通り、」と何事も無かったように記しているのは、家久を含め薩摩隼人の勇猛さを物語るものといえる。そんな家久でも、ビックリ仰天するような出来事を行く先々で見ることになるのです。
この船頭に皆の衆が怒り、もう降りると言い出したが地元衆が意見、とりなし出船。
・4/14 「一 十四日、明石の浦人丸のしるしの松とて有、亦、明石の城有、次にしほや(塩屋)・たるみ(垂水)とて有、さて未ほと(14時頃)ニ淡ち嶋の方、江さき(江崎:淡路津名郡)といへる処に舟かゝり仕、やかて出舟有、右方ニ松の尾(松帆)とて有、其次ニ江嶋とて有、左方ニ一谷ほのかに見え、其次に松風村雨の松(衣掛松)有、それより行(ママ)兵庫(摂津八部郡)へ申刻(16時頃)着、其あたり一見、清盛・忠盛の御影(御堂か肖像画)拝見、さてつき嶋松にこんていの御堂へまいり候、」
(注:この日、織田信長、摂津石山本願寺攻撃。)
(注)松風・村雨(むらさめ)の松(衣掛松):伝承上の須磨浦の多井畑の村長の二人の娘(海人)と実在の在原行平の悲恋伝説物語。二人に告げれば悲しむだろうと烏帽子と狩衣を松の枝にかけ、別れの歌を詠み密かに二人のもとを去る。百人一首行平の歌に「立ち別れ
いなばの山の峯に生ふる松とし聞かば いま帰り来む」。
松風・村雨姉妹は尼となって行平旧宅跡に庵をむすび彼を慕い偲んだという。松風・村雨堂跡(現観世音堂)には行平の和歌碑と衣掛松の切株がある。神戸市須磨区には松風・村雨・行平・衣掛の町名がある。室町時代謡曲「松風」の題材にもなる。家久の情緒ある教養の深さを想起させる一節。(詳細wiki、その他検索)
< 摂津西宮から京へ向かう >
京へは西宮から伊丹・茨木・高槻・山崎と山陽道を進み、4/17大井川を嵯峨野の地から入る。嵐山付近から上流を大井川、下流を桂川と称す。

・4/15 「一 十五日、辰刻(8時頃)舟出候へハ、左方に花山といへる城有、次ニ生田川、其次ニ生田森、亦ミかけ(*御影)の森、次ニ芦屋、(さて)行
て西の宮(武庫郡西宮)の内海上より左の方ニ、ぬす人をはりつけにかけられ候、さてゑひすの町なら屋の彦三郎・めくちの町松井甚助・亭主の子藤次郎、西宮まておくり、藤次郎すゝを舟中にもたせ、さて西宮一見候に、甚助・藤次郎道しるへにて侍りし、それより打立ゆけは、彦五郎(彦三郎?)すゝ・焼餅、西の宮の名物とて持参、賞翫、さて打立行はむこ(*武庫)川とてあり、左方むこ山(武庫山のち六甲山)・しうち山とて有、右方むこ(武庫)の海、猶行てこや(伊丹市:川辺郡昆陽)の寺(昆陽寺)迄甚助いさない候て茶なと、それより甚助いとまこひ、名こりおしミ打過ぬれは、左方こやの地(昆陽池カ?)有、亦行て右方に有岡といへる城(荒木村重・有岡城)有、本ハいたミ(*伊丹)といへる城也、亦左方に池田といへる城有、今はわりて(壊して)捨られ候、
(さて)行てせ川(箕面市:豊島郡瀬川)といへる郷を打過、にしゃく(にしじゅく?:箕面市:豊島郡西宿)の村弥五郎といへるものゝところへ一宿、」
(注)海上盗人・海賊に対する見せしめか?
(注)昆陽(こや):奈良時代に僧・行基が昆陽寺(こんようじ・こやでら)の前身となる昆陽施院を開き、昆陽池など複数のため池造営を指導したとされる。中世までは摂津国武庫郡西小屋庄に分かれる。前者は更に多数の市町村にまたがる。後者は現在の尼崎市西昆陽に当たる。(wiki)
・4/16 「一 十六日、打立行ハ、右方ニいはらき(*茨木)といへる城有、それよりあくた(*芥)川といへるをわたり、亦右方高つき(*槻)といへる城有、さて山崎(山城乙訓郡)の井上新兵衛といへるものゝへ一宿、」
いよいよ、明日は京都に入ります。
【参考】応安4年(1371):今川了俊「道ゆきぶり」
今川了俊の紀行文「道ゆきぶり」は、了俊が九州探題として鎮西平定の重大な使命を帯びて京都を出発し、赤間関までの紀行文ですが、200年の時代差と目的の大きな違いがあるにしても、通過地の地勢状況、特に安藝三原の地勢についてより理解できるのではないかと考え、本稿に追加「参考」掲載することにしたものです。
和歌60種を含み赤間関で終わるこの「紀行文」のうち、「京都から備後尾道」までは通過・宿泊地名等を簡潔に、「備後尾道から長門赤間関」までは地名・地勢等に関係すると思われる部分を原文抽出で記載します。
引用文献:岡山大学学術成果リポート:〔今川了俊「道ゆきぶり」注釈〕・著者:稲田利徳
<京都から備中屋影まで>
(注)2月20日に京を出発してから、次に月日が記入されるのは5月19日に尾道から沼田(本郷)に移動した所で、その間の各地滞在期間は不明。備中屋影(矢掛)までの宿泊地は(・着きぬ・到りぬ・とどまる等から想定できるもののみ)太字記載。
京都-桂川-山城山崎 - 津の国(摂津)芥川(高槻市芥川)-瀬川(箕面市瀬川)-小屋野(伊丹市昆陽野)-武庫・武庫の山(武庫川河口から西宮にかけて海辺一帯の地、背後の山を武庫山のち六甲)-打出の浜・芦屋-摂津御影の松原(神戸市御影)-生田川-湊川(神戸市)-須磨(神戸市)-関屋の跡(神戸市関屋町)-播磨大蔵谷(明石市大蔵谷)-明石の浦-印南野(明石から加古川周辺一帯)-清水・金崎(明石市)-いそき(龍野市の内揖保崎)-恋という里(龍野市の内小犬丸保)-備前かがつ(かがと・備前市香登・長船町)-福岡(同)-みのの渡(岡山市北方三野)-辛川(からかわ・岡山市西幸川)及び吉備の中山(備前・備中の二社吉備津彦・吉備津神社の中間、中山)-軽部川(高梁川)-備中屋影(矢掛)
(注)武庫山の由来について、武庫の地(武庫川河口付近から西宮にかけての海辺一帯の地)で、
「川面(づら)にそひて、木深く物ふりたる山あり。鳥居たたり。そのあたりの人に尋ね侍れば、これは昔、足姫(神后皇后)の唐土(もろこし)の三の国(三韓)したがへ給ひ、帰り給ひける時、この山に鎧・冑など埋み給ひけるより、やがて武庫の山(のち六甲)と申すとなむ。(アト和歌省略)」
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