周防国の街道・古道一人旅
山陽道
多田~欽明路峠

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関戸で石州街道(岩国往来)と合流するが、ここから多田にかけての旧山陽道は国道二号線の山側の崩壊防止擁壁部分か、山裾の少し高い所を通る桟道(かけみち)であった。これは当時の錦川が山の近くを通っていたためと思われる。洪水による氾濫においては度々山裾まで水が押し寄せていたことは容易に推測できる。山陽自動車道の高架橋下をくぐると多田村である。左手に岩国コンクリート(株)の正門が見えてくる。この付近は千石原と呼ばれる氾濫低地で、多田古市の一里塚付近からこの辺りまで、旧河跡名残りの細長い大池があった。「関戸村図」(享保増補村記附図)及び「慶応の岩国領内全図」によると、多田古市の川も一旦、大池に注いだあと街道南側に沿って関戸口にあった二つの小さな池へ向けて流れている。この水筋は昔の錦川の水筋が山側寄りであったことを物語っている。街道はこれらを避けるように山腹を桟道となって蛇行しながら古市へ向かっていたが、国道二号線の崩壊防止擁壁によって削られている。この険しい桟道のうち、多田見坂付近は一部現存し、地元岩国の有志によるボランティア活動によって標識等の設置や整備が行われ、進入通行可能になっている。

多田見坂旧道入口と標識

コンクリート会社のレミコン車専用出入口真向かいに当たり、落石防止ネットを張った擁壁と崩壊防止擁壁との間に約60cm程の隙間があり、ここからかろうじて険しい多田見坂旧道に入ることができる。ここにはネットに標識札がくくりつけてあるので容易に確認できる。落石防護ネットの下をくぐるとここから山腹へ向けてロープが張られているのでこれを伝って崖道を登っていく。当時の桟道はもっと手前から続いていたと思われる。ロープを張った先からが旧道で、坂道を登りきると忠魂碑のある広場があり、傍らに銚子の善五郎供養碑がある。これは江戸中期、この地で行き倒れとなった下総国銚子新庄村の善五郎を供養したものである(略図メモ参照)。「玖珂郡志」によると、この付近を「多田見坂」というようだ。ここから案内標柱に従って最初は北方向に下り、次に南へ向けて下ると弥山堂古市大鳥居が見えてくる。大鳥居の手前は人一人がやっと通れる道幅だが、これは後に畑ができたためで、気をつけてよくみると岩肌を削った桟道であることがわかる。この岩肌は大鳥居まで続き、当時は結構広かったようである。大鳥居付属の常夜燈一基は、道路拡幅時失われている。ここが多田村の中心集落である古市の入口である。

大鳥居を過ぎて、藤川郵便局の国道をはさんだ真向かいに、
大池西端の多田の一里塚「安芸境小瀬より壱里、赤間関より三十五里」があった。ここから現在の古市川に沿って錦川へ向かうと多田の船渡し場跡がある。お急ぎの方は、ここはコース外となるが、最近になって石碑が建てられた。

落石防護ネットをくぐり、ロープを伝って急な崖道を登る 多田見坂の銚子の善五郎供養墓
弥山堂古市大鳥居と藤川郵便局 大池西端の多田一里塚跡 多田船渡し場跡

石州街道(岩国往来)はここから北へ右折し松尾峠を越え萩領生見(玖珂郡美和町)へ入り、石州経由で毛利宗家居城の萩へ至る街道であった。この道は関ケ原の戦いの後、慶長五年十一月から十二月にかけて削封された吉川広家の家族、家臣一行が、出雲国富田城から石州路を通り寄留地由宇に入った道でもある。広家自体は宗家存続に奔走した後、大阪から海路軍船で由宇村に到着し住居を定め(このとき地元土豪と小競り合いがあった模様)、ついで岩国横山に城を築き慶長十三年(1608)に竣工しているが、元和元年(1615)の一国一城令によってこれを破却している。

多田古市の町並みは主に石州街道に沿って南北に形成されていた。応安四年(1371)、鎮西探題として九州へ下った今川貞世(了俊)の日記「道ゆきぶり」に、周防に入って最初に多田で止宿したことが記されているが、「岩国市史」に「歌人として旅をしていたのではなく九州探題として、軍勢三百騎を率いて下向していたのだから、中世の頃からそれなりの宿泊設備を持っていたのだろう。」とある。当然、一部は近くの関戸や御庄にも分散宿泊したであろう。

(参考)今川貞世の「道行きぶり」に、
「これより周防のさかいと申す。今夜は多田という山ざとにとどまりて、朝にまた山路になりぬ。これなむ岩国山なりけり。一つふたつある柴のいほりだになく、人ばなれたる山中にみ山木のかげを行く。誠に岩たかく物心ほそき路なりけり。夕になりぬれどきこりだに帰らず鐘の声だに聞えぬ所なり。(中略)はるゞと越過ぎて又海老坂といふさとに寺の侍りしにとどまりぬ。廿二日なるべし。」(引用文献「岩国郷土誌稿 全」)

・9/22 多田から岩国山を越えて海老坂(呼坂)の寺泊。 ・9/23 遠石浦を経て富田浦。 ・9/24 富海を過ぎて周防国府到着。 ・10/7 深夜国府を出ておおさきの浜、岩淵を経て香河(嘉川)泊。 ・10/8 あさの郡(厚狭郡山陽町郡)。 ・10/9 埴生浦を通過し長門国府到着。長期滞在  ・11/29 長府国府を出発、赤間の関到着。          

当地では藩政初期から瓦焼き固屋がおかれ、瓦師三家による瓦焼きがおこなわれていたが、城下町家屋密集地藁葺の厳禁等需要が増し、文政七年(1824)の吉川氏菩提寺洞泉寺の屋根普請のときから御庄の瓦師が加わり四家で焼成することとなった。天保の末頃から多田の瓦土が不足してきて御庄に比重が移る。後に焼物窯が置かれ陶器の生産が盛んで、現在も「多田焼き」として生産が続いている。

古市を過ぎて街道は、ほぼ現在の国道に並行して東側の田を通り、
多田庄屋屋敷の手前付近から国道を斜めに横切ってから再び国道を横切り本庄八幡宮へ向かっていた。多田の庄屋塩田氏は、安芸国大安佐の住人であったが吉川氏に従ってこの地に移住したといわれる。現在の塩田歯科医院駐車場に赤土の蔵があったことから多田の赤蔵屋敷と呼ばれていた。

かって
本庄八幡宮の下に紙蔵があった。当時は川が鳥居の近くを流れていたらしいが、延宝年中に川筋が御庄内に変わり不便になったため、錦見(にしみ)の鳴子岩に移転した。錦帯橋東詰め錦見側の少し北、現在のバスセンターが御蔵跡で、その北隣、岩国国際観光ホテル駐車場付近にかけての辺りになる。紙蔵跡付近に八幡宮の宮司宅があるが、ここの蔵を紙蔵跡(実際は少し山手か?)と思いながら進めば御庄の渡り場に出る。この付近は孟宗竹が群生し国道沿線まで広がっていたが、平成四年の山陽自動車道開通(岩国IC~熊毛IC)に合わせて大規模な区画整理が行われ昔の面影は無い宮司宅も最近になって現代的な住宅に建替えられている。

本庄八幡宮を過ぎて横断陸橋を渡り、国道二号線の左側を西へ御庄の渡り場へ向かう。
多田の赤蔵屋敷跡(塩田歯科医院) 紙蔵跡(宮司宅付近の山手) 本庄八幡宮


昭和40年頃の御庄。中央付近が渡り場(T氏提供・禁複写)

防長中国路最大の御庄の渡り場は当初、「御庄大橋」付近にあって、御庄の市も、渡り場より土手を越して平地の入口中央部付近にあったが、寛文六年(1666)の水害以降、水害が常襲化したため、十年後の延宝四年(1676)に道筋を山沿いに移し、それにともない家屋も新市として新しい道筋へ移転した。新市は街道の片方に片側町として屋敷が割り付けられたため、新市の長さは九町四五間(1062m)に及び、渡り場も大橋のやや上流の「御庄橋」の川上約100mに移設することになり、これは渡りの廃止まで続いた。今、この場所には山陽新幹線が錦川を横切っている。
御庄の渡り場は徒渡りか船渡しで、渡守は常時一人づめ、一か月のうち十日を多田側、二十日を御庄側が担当し、渡し賃は、武士は無料、百姓・町人は初め一人米一合、後には一人二文、牛馬は四文だった。


 寝覚めしてわたしや 竿さす船の音のみやする
「玖珂郡志」:御庄八景の一つ「渡し場時雨」-

「御庄」は名前が示すように氾濫原低地の田には条里制の面影を残していたが、山陽新幹線開業(1975.3)に合わせ大規模な区画整理が行われ、往時の面影は無い。ここは「御庄橋」を渡り、新幹線高架橋に沿って新市へ向かうのが推奨コース。「大橋」では「渡し場時雨」の風情を味わえない。   

(注)御庄橋は平成29年(2017)3月、橋梁点検に重大な劣化が発見され全面交通止め。将来的に撤去される。このため御庄大橋を渡り右岸土手道を新幹線側道へ向かう。

御庄橋北詰(左岸)から見た「御庄の渡り場」 左、御庄大橋付近・右、延宝四年から(山陽新幹線付近)
御庄橋左岸(北詰)付近の竹薮 御庄橋と渡り場(山陽新幹線付近) 御庄橋を渡って右折

御庄橋を渡って右折し、山陽新幹線沿いを御庄市へ南下するが、途中の旧道は新幹線開業時の区画整理のため消えてしまっている。地元の方々への聴き取りによって、わずかに御庄の瓦師であった旧家西横の空き地と、少し下がって民家横の畑にその道筋を納得するのみである。この道筋は区画整理前の御庄橋からの道筋であって、「巡見上使迎接往還絵図」(元禄十六年)と「慶応の岩国領内全図」によると往時の渡り場から新市へ至る道は、新幹線ルートより少し西側山手沿いであった。

旧家西側の旧道跡(北方向を写す) 民家東側の畑を過ぎて山根へ曲がる 新幹線高架下から新市方向


新幹線の高架をくぐって最初の民家の方に教えてもらったが、この付近は民家の庭先が旧道であったらしい。
教蓮寺を過ぎて、御庄の本陣跡は老朽化はなはだしく、最近になって更地になった。ここは河止めなどで止宿の必要な時、使用されたようだ。この少し先に、多賀大明神があるが、ここの境内は大名や大使等の通行に際し、人馬の集積場所に使われた。この付近は新市が街道に沿って、手前の畑と家屋が一体的に山側に向けて片側町として割り付けられているのがよくわかる。

御庄の本陣跡 多賀大明神 新幹線高架橋と御庄市西山栢の木狼煙場
 

御庄市西山栢の木狼煙場(岩国領)は、新幹線が新岩国駅を下って最初のトンネル(第1神之内トンネル)の山頂にあった。トンネル北側出口南東側街道沿いの地が「栢ノ木」で、「岩国領内全図」に集落四軒の地名として「カヤノキ」と記載されている。「西山」は栢ノ木の西にある山、の意で、山頂から関戸峠とう谷狼煙場(岩国領)と南に柱野の鳥越山大峠狼煙場(岩国領)を見通し、御庄の渡り場、西氏(思案橋)を見渡す。

街道はこの先、新幹線と錦川鉄道(旧JR岩日線)高架橋下を進み御庄川の左岸を柱野へ向けてさかのぼる。

錦川鉄道・清流線高架下から御庄川左岸へ 御庄川左岸から北方向、左に西山栢の木狼煙場と右に「城山」西南山麓を望む

「慶応の岩国領内全図」によると御庄川左岸往還道片側に民家が散見されるが、今は一軒もその姿はみられない。これは洪水の都度、山裾か対岸の山裾、大畠に移転したためである。この付近は昭和26年のルース台風や、昭和34年の柱野五瀬ノ湖ダム建設工事に併せて河川改修が行われ、3m前後高上げされている。思案橋の手前が御庄西氏である。

錦川鉄道と思案橋

錦川鉄道清流線の御庄川鉄橋と並行して思案橋(西宇治橋・西氏橋)が見えてくる。西氏(西宇治)の地名は、大内義興の時代に山口に京都を写した際、この地に山代国宇治をまね、茶の名所とし、山吹を植え、蛙を放ち、蛍の名所としたことから呼ばれるようになった。思案橋の名も西国からの旅人が名勝「錦帯橋」を見物していくべきか思案することが多かったことから名付けられたそうである。岩国城下錦見札場を起点とし川西を船渡りし、道祖峠(さいのたお)を越えてここ思案橋で山陽道につながるこの道は、脇街道とはいえ岩国領府にとって宗家萩本藩との重要な往還(岩国道・堅ケ浜往還)であった。幕末期には海路も使用されたが古くは移封後の防長両国の建設、また、幕末の危機的状況下にあって初代吉川広家、十二代経幹(つねまさ・通称監物)両氏の果たした役割はこの道を避けては語れない(経幹は慶応三年三月二〇日逝去三八歳・毛利敬親の指示で喪を伏し、明治二年三月二〇日喪を発表)。吉田松陰が示唆したことを彼らは実行する。旅人よりは宗支藩政府主脳陣や密用使が思案・葛藤する橋であったはずだ。近代になっても小方(大竹)から海岸線を西岩国錦見に入り、川西・道祖峠・思案橋経由欽明路峠を越えていた国道二号線が大正九年に多田・杭名・南河内の北回りルートに変更されるまで重要な幹線であった。
思案橋左岸(西詰)には口屋番所があった。

ここで、面白いニュースがある。徳川十三代将軍家定の正室
天璋院篤姫は、江戸城へ御腰入れの途中、思案することなく錦帯橋に立ち寄っている。情報を提供して下さったのは、岩国教育委員会周東支所長(現、玖珂公民館長)の南谷氏で、教育委員会発行の書籍引用について内諾を得るため訪問した際の情報である。それによると、岩国徴古館元館長の宮田伊津美氏が、同館所蔵の「岩邑(がんゆう)年代記」のなかに発見している。後日資料を頂いたので、原文のまま引用してみる。
「岩邑年代記」嘉永六年(1853)九月十一日の部分に
「薩州姫君様、昨夜高森泊にて、今日大橋御廻り。児玉屋ぇ御小休。今晩久波御泊の由。横山乗起ぇ鉄炮頭中村靜衛、錦見乗越ぇ町奉行今田七右衛門手子藤村十兵衛、御案内御使者有之候に付、御客屋ぇ御使内坂左門。  但、御同勢沢山。此度、公議ぇ御輿入と申評判。」
(注): ここで、児玉屋とは芸州木野村中津原の御茶屋(津屋)のことで児玉氏宅の屋号は「津屋」というが、別名「児玉屋」とも呼ばれ茶屋(休憩所)として使われた。小瀬川を渡ってから児玉屋(御茶屋)で小休止したらしい。これから勘案すると、大名やこれに準ずる高貴な方は、渡し場を利用の際、児玉屋の茶屋か店口の嘉屋氏の茶屋の何れかで休息していたとおもわれる。小瀬川(木野川)の渡し場は芸防国境の渡し場なのだ。(河川名は明治になって原則、右岸側呼び名、地名に統一される。)
本項、2010.10.10追加:巻末「是日々見聞録」参照。当初、文面から大橋の東詰に児玉屋と称される御客屋でもあったのかと思っていた。)

「訂正」:ややこしいが、やはり文面通り錦帯橋東詰の少し下流、錦見土手町にあった児玉屋が正解のようだ。ただ、2012.06.11のTV放映で「岩国地旅の会」杉山会長は御客屋に休息したと説明している。御客屋(接待所)は大橋東詰大名小路南側にあった。一応、芸州木野村の児玉屋にも休憩したことにしておこう。それの方がロマンがある。(本項2012.06.11TV放映後訂正。)

岩国徴古館M学芸員の情報では錦見土手町に児玉屋と呼ばれる大きな旅館があった。ここで食事もとったそうだ。篤姫は事前に手配の土手町の旅館「児玉屋」で休息、食事。大橋乗り越え折り返し後、多数の御使者が大名小路御客屋(接待所)に案内され休息したか?(本項2013.06.14追記)

当日、玖珂から使者を遣わし渡橋の許可を求め、岩国藩は橋の破損等を理由に断っているが、さらに使者を送り、主人薩摩中将(島津斉興)参勤の折り渡橋している旨伝え、現地でこれを盾に強引に押し渡っているようである(「御用書日記」)。思案橋を渡ってしまえば、こちらの勝ちということだろう。そういえば、平成の篤姫「原田早穂」姫君も初めて見る錦帯橋を中国路の一番の楽しみにしていたようで、古今を問わず姫君の願望は同じようだ。

奇しくも
吉田松陰は、嘉永六年の一〇年の再遊学の際、同年一月二十二日、萩を発して富海から大阪迄海路、大和諸地を巡り中山道を江戸へ向う。途中、新湊(室木村穴の口・現岩国港)に着き、積荷揚陸の間上陸して一里の道を徒歩で錦帯橋を見物し、大橋東詰にあった岩国藩政に対する意見箱「諌櫃」(いさめびつ)に感心し、再び新湊に折り返し宮島へ向っている。実に二月三日のことである。彼は思案の有無については全く関係ない。さすが松陰先生だが、歌を詠んでいないのが残念だ。(嘉永四年の江戸遊学のとき過書交付を得ず東北へ向い脱藩の罪で萩に送還されるが、松陰を惜しむ藩主から一〇年の再遊学を許され、嘉永六年一月、海路周防南岸経由大坂着、大和諸地を巡り江戸へ向う。)(「吉田松陰全集第十巻」・「岩国郷土誌稿 全」)・詳細は高森松陰宿泊の項・「日々是見聞録」、及び「西方面ルート図」富海の項参照。

風雨のなか欽明路峠を東進

 平成の篤姫錦帯橋お成り。 NHKTV「街道てくてく旅。山陽道」出演の北京オリンピック・シンクロナイズドスイミング・デュエット銅メダリスト、原田早穂姫君様は平成二十一年六月十日午前九時頃、激風雨のなか高森御出発。今日大橋御廻り。御傘も差さず欽明路峠越。柱野で御昼食、思案橋から岩国道、道祖峠経由、錦見御城下御到着にて岩国駅前ホテル御泊。翌十一日晴天、早朝大橋前でTV生中継後横山乗起ぇ。花菖蒲を御覧。御城から御城下を御展望。再び思案橋から御庄橋、多田見坂、小瀬峠、両国橋を乗越ぇ安芸国木野の御神事場御到着。再び岩国駅前のホテル御泊の由。
この間、多田見坂崖道ロープ伝いで御下りされるも、前日来降雨のため落石防止ネットをくぐる付近足場悪く、御供頭の意に従って再び崖道を折り返し迂回されている。平成の姫君は健脚だが大変だ。また、万が一の事故を心配したスタッフの決断もさすがだ。


ここで少し休憩し、関戸で思案し、西氏でも思案する旅人のために、現在、世界遺産登録に向けて
関係者が努力している錦帯橋について二、三紹介しましょう。
                    

錦川水の祭典(8月第一土曜日) 鵜飼船の篝火光跡(6/1~8/31)
桜のシーズン 錦帯橋まつり(4月29日)関戸の奴道中と「三代目槍こかし松」 ・ 万灯と纏(まとい)

吉川邸厩門内部と傍らの「二代目槍こかし松」・(初代は昭和27年枯死)
「街道てくてく旅。山陽道」の早穂姫君(2009.06.11・AM8:30)

この他にも吉香公園のボタンやさつき(4下~5上)・花菖蒲まつり(6中)・秋の紅葉谷公園・白蛇・岩国城、吉川家菩提寺洞泉寺、吉川家墓所、吉香神社、香川家長屋門、旧目加田家住宅、岩国徴古館等の史蹟巡り等々色々ありますが、錦帯橋鵜飼遊覧が期間も長く、セットでお泊りになるのがスケジュールもたてやすくお勧めです。

 岩国市観光協会 鵜飼事務所    http://ukai.iwakuni-city.net/
0827-28-2877

(社)岩国市観光協会公式サイト
  http://www.iwakuni-kanko.jp/

0827-41-2037

容量オーバーが気になるので寄り道はこのくらいにして先を急ぎましょう。

道祖峠(川西側) 左、旧峠道 道祖峠(柱野側) 右、旧峠道


柱野西氏・一ノ瀬(市ノ瀬)付近

思案橋から南が柱野西氏で、この付近御庄川右岸から柱野市にかけては当初、川六瀬の飛び石伝いであったが、元禄十六年(1703)に最初の思案橋(板橋)がかけられた際、左岸山沿いの桟道に改修された。「玖珂郡志」に「元禄十五年カケ道になる。同十六癸未、長崎上使(四名)通路の時、只今の道となる。」とある。元禄十六年の「巡見上使迎接往還絵図」(岩国徴古館蔵)では曲がりくねった御庄川右岸(東側)の低い河川敷平地にあった川六瀬飛び石伝いの旧道(後述)と左岸山沿いに付け替えられた新道が両方描かれ、道祖峠(さいのたお)経由岩国城下へ向かう脇街道(岩国道と表示)は旧道につながり橋はまだ描かれていない。描かれた直後に橋が架かったようである。勘ぐり屋からみれば、作為的に巡見上使お役目御免の後に橋をかけたのではないかとおもうが、恐らく間違いないだろう。(このとき、四人の上使に対して本陣を四件用意せねばならなかったため、関戸と、御庄に二名づつ分宿している。)

この
旧道道筋名残りは対岸の川沿いにその一部を見ることができるが、特にJR柱野駅から柱野下市にかけては、現代になって河川改修が行われているものの、旧道筋とおもわれるところがある。現在、奇しくもこの付近の新道街道の路肩には、自動車化の波に押され、鉄製の桟道(?)が学童の通学路確保のために設けられている。まもなく歩道も新設されるだろう。時代の変化を感ぜざるを得ない。


〔伝太閤門〕
2010年5月19日、錦帯橋から自宅へ帰る途中、思案橋西詰柱野西氏の口屋番所跡付近で古老S氏に出会い、驚くべきニュースを入手した。この付近、思案橋から一ノ瀬にかけて街道西側の低い田が続く区間や手前の御庄西氏近辺は多少山手へ蛇行していたのではないかと思っていたのだ。前述、元禄の往還絵図はかなりラフで、「慶応の岩国領内全図」との違いを確認できていなかったのだ。古老S氏からの聞き取りで一ノ瀬手前の往還松一本が昭和初期まで現在の土手道川側に現存していたようで、この疑念は取り越し苦労であったことが分かったのだが、そのとき彼が小雨降る中、一軒隣の西氏バス停まで移動し南西方向を指差しながらとんでもないことを話したのだ。最初は半信半疑で聞いていた。

「思案橋の西氏バス停南西約150m、街道筋から山手方向約100m付近に桜の木が二本あるが、この横に昭和30年ごろまで立派な門があった。この玄関門の少し山手に屋号「門屋」というN宅があった。門屋には秀吉九州下向のとき、ここに一夜の陣をとった伝承があるようで、これが屋号「門屋」の謂れとなったようだ。事実を証明する古文書等を焼失しているため一笑に付す人もいるが、ご当家は至って真面目だ。現在のN宅は旧宅山手の浴にある」。
びっくりするようなニュースだが、今まで出合った地方史研究文献にはなかったようにおもう。思い当たるのは天正十五年、玖珂野口下の「亀山」での大休止(茶屋)と、旧熊毛町小松原兼清の休息場所「桜井」史跡の二つで、これは秀吉が九州島津氏征伐のとき、「椎木峠越」から筏場で「相ノ見越」に合流し、呼坂、花岡方面へ西下したと推定した根拠となるものだ。
この日は雨が降っていたので翌日訪問することにし、帰宅して久しぶりに「慶応の岩国領内全図」をみると、「思案橋」左岸には「口屋番所」に隣接して民家が二件、桜木のある付近に一件の計三件を確認できた。確かにあの場所に旧宅があったことは間違いない。「岩国領内全図」を使って民家を主体に検証するのは初めてだが、これが引き続き一ノ瀬塚山跡を特定するヒントになろうとは...。(後述)

「思案橋」左岸(西詰)の西氏バス停から一ノ瀬方向をみる ・ 桜開花時期の風景

翌日、二日にわたって「門屋」N宅を訪問し、初老の御主人から聴き取りを実施した。ここでは要旨のみを記すが詳細は巻末頁の「是日々見聞録」に記載することにした。

〔聴き取り要旨〕
「秀吉九州下向のとき、当家に一夜の陣をとり、そのとき大軍勢が背後の火矢ケ迫(「岩国領内全図」にヒヤカ迫とある)に一晩中篝火を焚いて駐屯したと伝え聞く。浴の上まで篝火と兵で埋め尽くされたそうで数百どころではないようだ。一夜の宿の礼に立派な帷子(かたびら)を賜ったが、明治36年に藁葺き家屋が火災にあい、古文書と一緒に焼失し、門だけが残った。そのときかろうじて持ち出した一番古い位牌が寛永元年(1624)なので、少なくとも1590年頃には存命であったろうから、天正十五年(1587)の島津氏征伐のときではないかと推察している。桜木の横にあった玄関門は昭和30年頃老朽はなはだしく取り壊した。
5年前に九州における秀吉の行軍・御座跡を調査・研究している福岡県直方市の直方歳時館長牛嶋英俊氏に連絡を取ったところ、当家に来ていただき、山陽方面調査時に調査検証の約束をしてくださったがまだ回答はない。牛嶋氏の話によると、「数カ月以上前に宿泊の事前通知があり、門を作れ(屋敷を整えよ)ということらしい。岡山にはこの種のはっきりした
「太閤門」の史跡があるそうだ。百姓屋であるが門を作ることを許されたようだ。当時の先祖はこの地区の年貢米の集積等や世話役をしていたようである(土豪か?)。古文書を焼失していることと、吉川時代以前のことなので岩国徴古館に相談照会はしていない。」

(後日、牛嶋氏に照会し、備前市浦伊部の妙圀寺の前に太閤門の史跡がある事が判明。備前市歴史民俗資料館に電話すると場所を教えてくれる。立派な石垣と門である。後日、浦伊部まで足をのばすことに...。)
参考:牛嶋英俊氏著書に「太閤道伝説を歩く」(弦書房・2006.03発行)

背後の「火矢ケ迫」を埋め尽くした大軍勢と篝火、「火矢ケ迫」の地名と「門屋」の謂れ、焼失したがそれまで保存されていた立派な秀吉下賜の帷子等、信憑性は高いと思われるが、古いことなので素人にはこれを検証する方法を知らない。事実だけを記載したが、今まで玖珂庄を旅した方は野口の「亀山」での秀吉休息の茶屋を直ぐに思い浮かべるだろう。当時のこの付近御庄川の飛び石伝い川岸偏道や柱野金坂(二軒屋・中峠)、欽明路峠の難路をおもうと距離的、時間的に完璧な位置関係にある。参考事項を巻末の「是日々見聞録」にまとめたので参照されたい。
なお、参考事項を検討・整理する過程で、天正十五年の秀吉の動きを詳細にまとめ年譜にした高次元のサイトを見つけ、引用とリンク貼りの許可を得たので紹介しておく。周防国に入る前、朝鮮の役と同様厳島(宮島)に参詣しているようだ。
 なお、「調査報告書」P70の高森「新道越」の解説文中に、「九州御動座記」に「天正十五年(1587)三月二〇日、秀吉が岩国横山の永興寺(ようこうじ)から呼坂へ」とある。本件は牛嶋氏からも教唆を受ける。(注:永興寺は岩国横山の臨済宗古刹)

  巻末
「是日々見聞録」「柱野西氏の伝「太閤門」Part-Ⅰ~Ⅳ」及び「大内時代の永興寺と錦帯橋?(渡香橋)」
 
 「Household Industries 歴史館」のうち「天下統一期年譜」
(本項、追加更新:2010年5月26日)                                 



思案橋から続く土手下の田が途切れる付近が柱野一ノ瀬(市ノ瀬)で、この付近に市ノ瀬一里塚「安芸境小瀬より是迄二里。赤間関より是迄三十四里」があったが、痕跡はまったくない。略図のプロット位置は「岩国領内全図」を参考に記入している。「調査報告書」によれば、防長山陽道の一里塚平均距離は4.3Km。このうち、多田~市ノ瀬間5.2kmが一番長い。

 市ノ瀬一里塚跡を特定。柱野一ノ瀬の田が途切れる付近土手道沿いに民家(Y宅)が一軒あるが、この民家と土手道法面の間にクリーム色のプレハブ小屋と駐車用広場がある。ここに昔藁葺きの旧宅(T宅)があったが、塚山はこの旧宅北側(向かって右側)のY宅現状畑付近にあった。「慶応の岩国領内全図」に、塚山の南側に重なるように隣接して民家があり、山手方向に民家が二件、計三件のみ記載されているため、この三件の旧宅を確定することにより塚山を特定することができた。この付近の道は約3m高上げされ、法面もそれにつれ広がっているので、この畑の道路法面端付近になる。奇しくもここは山芋を植えるため、高さ1m、幅2m四方に盛り上がっている。
Yさんの話では、昭和21年外地から引き揚げてきたとき、プレハブ小屋のある場所には、軒柱が朽ちてしまったため、藁葺き屋根だけが座った状態で残っていたそうである。又前述、思案橋西詰のSさんの話ではちょうどこの付近の真向かい川側に 往還松が1本あったのを記憶されている。(現在交通標識がある付近)
(本項、追加更新:上記「太閤門」と同時期。「是日々見聞録」参照。)

市ノ瀬一里塚付近から柱野駅方向をみる。 市ノ瀬一里塚跡(Y宅畑)
 2012年4月、歩道が設置され道路が拡幅された。
宅地(更地)部分も北へ広がり、プレハブ小屋も撤去。


ここで、先を急ぐ旅人はその歩みを止めて、時々は後方を振り返り周囲を見回して欲しい。

関戸宿に話を戻すが、小瀬川畔で述べたように二十二歳の
吉田松陰は、嘉永四年(1851)三月九日、前日宿泊した高森を暁を破って出発して欽明路峠を越え、ここ城山々麓北を御庄を経て関戸越しをし、その夜玖波に泊まっているが、松陰の眼に止まって深く感ぜられたままに長詩を一篇ものした中に次の一節がある。      

  「美哉山河是国宝 何似守此親与賢」
美なる哉山河これ国宝 何を以て此れを守らん親と賢

上田純雄氏はその著書「岩国郷土誌稿 全」に「松陰の眼に映じた、城山とそれを囲む竹林や御庄川、錦川の水態、清流が青年の純真の心を打ちこの自然を十二分に発揮している山河こそこれ国宝の美とまで感じたのである。この山河の美を国宝であるぞと教え、その美なること天下一品と評しつつ、この国土を守るに明君賢臣の一致和合すべきことを説く処に松陰の偉さがある。」と述べ、小瀬峠か関戸あたりに石碑に刻して永く記念すべしと主張されている。そこには今、「吉田松陰先生東遊記念碑」があり、碑陰に松陰の詩が刻まれている。この風景は現在では「西氏、一ノ瀬付近」、「御庄橋付近」、「客神社境内からの遠望」の限られた場所からしか偲ぶことができない。適当な距離と見通しが必要なのである。関戸の「錦果楼」や「多田の船渡し場」付近は見通しが効くが近すぎる。また、「夢路にもの和歌についてもできれば小瀬川畔に標柱を建てられんことを希望してやまない。」と結んでいる。なんと素晴らしい岩国の人々ではないか。松陰をはじめ、松門達も本望であろう。何れの石碑も昭和の時代、戦後になって、防長東端の地に建立されていることに意義がある。

この防芸の界に至り、ものした長詩は、四段からなっており、第一段は岩国藩における山河の美をたたえこれを守る道を述べ、第二段には、支那の昔に国土を失った実例をかかげ、第三段には、防長二国の現状は果たしてこれでよいのであろうかと投げかけ、第四段で国宝ともいうべき美なる山河を守るために、岩国藩と協力して藩祖毛利元就の教え(三矢の教え)にそむいてはなるまいと結んでいる。その教えは、幕末期長州藩がかつて経験したこともない未曾有の難局を乗り切り、維新回天に遺憾なく受け継がれ発揮されているのである。   


対岸の
JR岩徳線柱野駅を東に見ながらさらに進み、岩徳線の鉄橋下をくぐり山塊樫ケ淵)を左から右に大きくカーブすると柱野市入口の下市橋が見えてくる。

(注)JR柱野駅に向けて架かる西氏橋(思案橋とは無関係。ここを西氏橋と名付けたのはおかしい。)を渡り、対岸の道を西下してもよい。柱野駅から樫ケ淵にかけては河川拡幅改修によって消失しているが、元禄十五年以前の飛び石伝いの旧道筋に近い。五所大明神の西山麓付近から下市にかけては旧道そのものである。(詳細は略図・後述)
(柱野駅から思案橋間の御庄川右岸旧道は、JR岩徳線鉄道敷の堤防状法面や河川改修で消滅し通行不可なので、タイムロスにならないようご注意!)

思案橋から柱野市入口の下市橋まで約1.5Km。前述の「巡見上使迎接往還絵図」では、蛇行する御庄川の旧川筋は柱野市の東側を五所大明神(五所神社)の山塊にぶつかり、ここで大きく左に曲流していた。街道もこれに沿って屈折し、柱野市の入口で街道が直角に屈折した形態になっている。現在の下市橋(昭和35年4月)は近年の水害による河川改修で川筋が西側へ直線状に変更された際、架けられたそうである。即ち、街道の真上に橋が架けられたと考えてよさそうだ。「調査報告書」にある近年がいつ頃で、いつから橋渡りになったのか興味をそそられる。


下市橋を渡って出会った畑仕事中の中年の女性Sさんの話によれば、終戦直後の台風で甚大な土石流被害にあい、人的な被害もあった。この付近の家屋流失は免れたものの、鉄橋の橋脚が流れ、柱野側に仮駅が作られ、長期間折り返し運転をしていた。このときの水害で川筋が変わったのでまもなく木橋が架けられた。河川改修は、上流の五瀬ノ湖ダム建設に合わせて実施されたようである。この付近の家屋流失が免れたということは野とろ原の西側へも土石流が分散して流れたようだ。
その後判明したことだが、藤中里美氏の
「柱野中学校教材」に「昭和二十年九月十七日の枕崎台風により、柱野村の死者、行方不明者五十七名、一夜にして様相は一変し、川筋が変わった。岩徳線の鉄橋の橋脚一本も流失し、未だにその橋脚は見出せない。この苦い経験から五瀬ノ湖ダムが昭和三十四年(1970)に完成した。」とある。

五所大名神と旧道・旧川筋

下市橋を渡ってから街道と逆に左折し、北方向へ元禄十五年以前の旧道を進むと、五所大名神石段の縁に旧川筋を確認できる。このことから柱野入口新道は台風の後、仮橋かどうかは別にして橋渡りに変わったと思ってよさそうだ。この時期、基幹道路としての位置づけは南河内経由の北回りルートに譲って既に25年経過している。
中年の女性は地元の方で、非常に系統だった説明をしてくれる。ついでに「柱野の手前、あの山塊が迫った鉄橋のある付近のカーブは、何か地名があるんですか?」。「あそこは、
カタキ淵といい、昔は 底が分からない程深くて、小さい頃泳いで遊んでいたところです」。「カタキの漢字は?」。「呼び名しか知らない。文字に書いたものは知らない」。もともと中年の女性に古跡等の質問をしたことがないし、今回も古老がいる家を訪ねる予定で話しかけたのに大収穫だ。後日、「玖珂郡志」樫ケ淵。蒼々として不量其底。...此の上、樫木多き故か、夏の頃蛍火夥くして、見物貴賎成群。」とあるのを見つけることができた。「不量其底」は土石流で埋まったのだろう。女性の話がなかったら間違いなく見逃していただろう。先入観を持つのは禁物だ。「岩国領内全図」にも樫カフチとある。
今度は逆に女性の方から問いかけてくる。「こちら側の旧道はもう歩かれましたか?」。「いや、これから歩こうと思います」。

旧道にこだわる旅人は、JR岩徳線柱野駅に架かる西氏橋を渡り、ここから御庄川右岸(東側)の遊歩道(通学路)を柱野市へ向けて進むことをお勧めしたい。河川拡幅改修後の道とはいえ、樫ケ淵の対岸付近を除けば元禄十五年以前の飛び石伝いの旧道筋に近い。五所大名神山塊の山裾北付近旧道は河川改修後新たに田が作られ、舗装された細いあぜ道になっていて、途中で新田に寸断されているので川沿いの遊歩道を進む。(逆に、下市橋側から御庄川右岸旧道を柱野駅方向に進めば、やがて舗装された細いあぜ道になり、新田に寸断されているため川沿いの遊歩道を進むということ。)

御庄川右岸「五所大明神」の北側山麓付近 下市橋左岸(西詰)新道から鳥越山大峠狼煙場を見る

柱野の鳥越山大峠狼煙場(岩国領)は下畑から平田へ通じる山道の大峠の西、標高365.9mの鳥越山で、頂上は広いそうだ。中ノ峠を見通すため街道から遠く東に外れている。樫ケ淵から下市橋にかけて、東に相当高く見える。山頂からは横山城(岩国城)・錦帯橋が見えるそうである。「岩国領内全図」に「鳥越」の地名がみえるそうだが、この付近は街道から大きくはずれているため手持ち資料がなく、井上 佑氏の調査文献と国土地理院地形図で等高線を頼りに位置を想定するのが精一杯。「鳥越山」を聞いても知っている人はいない。「大峠」と言えば話が通じる。「鳥越大峠」の地の山ということだろう。後日登山をかねて訪れてみたいと思ったが、当地の古老や後述二軒屋のK氏の話では、大峠への道は昔、猪猟の際何度も通ったが、現在は獣道になっていて、とても通れる状態ではないだろうとのことである。K氏は大峠付近の山道に詳しい。大峠の山道は柱野から岩国平田の瀬戸内海沿岸へ向けての近道でもあった。

柱野市は初め、少し上流の古宿にあったが、たびたび火災にあったので下流の野とろ原へ移転し再建された。そのため街路幅が広い。多田、杭名、南河内経由の北回りに変更された国道二号線や、鉄道沿いに新設された道路、更には近くを通る県道15号線(県内初の有料道路として開通した欽明路道路。現在は二号バイパスの感がある。)のため車の通行も少なく、静かなたたずまいで宿場市の雰囲気を感じさせる。街道左手に下市集会所があるが、この付近が本陣跡脇本陣はこの真向かいにあった。御庄の本陣と一体的に利用されたようだ。さらに馬宿と呼ばれる馬立場が現、野村家付近(本陣の斜め北向かい付近の更地)にあって、御庄から伝馬七頭を移し十二頭を常設していた。この地に馬継があったのは、この先、防長路最大の難所である金坂(一軒野~二軒屋・中峠付近)・欽明路峠を控えていたためだろう。
余談になるが、当地の古老の話では玖西盆地(玖珂盆地)を東西に挟んで毎年おこなわれていた陸軍秋季大演習では、広島の連隊が柱野の各民家に宿泊したことがあったそうである。

    柱野市   本陣跡(下市集会所) (廃)柱野中学校旧校舎

柱野市を直進し、再び御庄川に架かる上市橋を渡ると古宿である。上市橋も川筋が変わったため新たに架けられた。古宿川右岸に(廃)柱野中学校の旧校舎が見えてくるが、丁度この真向かい辺りの街道沿いに、(廃)黄檗宗桂雲寺の本尊、千体仏の史跡案内標柱がある。江戸時代中期に作られた小さな木造の仏像が千体あったが、現在795体が現存する。檀家の法要の際、個人に一番似た仏像を借り受けて供養してもらい、又お返しする習慣があったという。民間信仰の形態としては貴重な資料で「岩国市指定有形民俗文化財」となっている。桂雲寺の廃寺時期は、比較的新しく昭和十二年(1937)である現在のお堂建替えは昭和四十五年のことである。お堂の右側に隣接するY宅が維持管理しているので頼めば拝ませてくれる。

(廃)桂雲寺の千体仏お堂 千体仏

-- ボツボツこの辺りから旅の疲れが出てきました。パソコンの動きもこの付近から遅くなって、何故か日本語変換に時間がかかります(足と頭が重くなったせいか?)。頁を分割してもいいのですが、前後関係がわかりにくくなりそうで止むを得ず重たい足を引きずっています。元資料についてもサイト用に略図とメモ・引用文を切り離すのは簡単ですが、新たに文章を作るのは浅学の身には大変です。そのため元資料(エクセルシート)をそのまま貼り付けることが多くなります。その場合、何故か色彩や鉄道線路・破線が、ぎざぎざに誇張された感じで、汚く見えてしまいます。(鉄道と並行区間が多いので困ったものです。)その場合は仕方が無いのでエクセルシートから画像変換して貼り付けていますが、BMP形式、JPEG形式どちらにしても文字の解像度がかなり落ちます。BMP形式で貼り付けても自動的にJPEG形式に変換されるようです。いずれにしても絵や字が滲んだように表示され、ダウンロードして印刷すると10%程度拡大表示され解像度が極端に落ちます。
記事もメモと一部重複するところがでてくると思いますが、その場合は、先ず略図にあるメモや引用記事に目を通した後に、本文を読んでください。「荒らしその道を越えるために手向け」 しますのでどうかご容赦を! --
 「略図・メモ」を印刷する場合は、Internet Explorer表示画面そのままで、略図をドラッグ選定し、85%程度の縮小印刷した方が解像度が良いです。それでも原本よりは多少拡大されて印刷される感じです。当方のPC-html画面・Explorer表示画面印刷機等のインターフェースによる微妙なズレかも知れません。

古宿の集落を過ぎたところで街道は欽明路道路(県道15号線)を斜めに横切り、さらにJR岩徳線のガードをくぐるが、ここから約100m進むとカーテルの入口角から斜めに欽明路道路方向に向かう農道がある。これが廃道となった旧道で、約250mにわたって山裾を蛇行し一軒屋の橋の手前まで続いていたが、欽明路道路のため切断・消滅している。山口県初の県営有料道路として、欽明路道路建設工事が行われていた頃(昭和47年開通)、旧道に埋設されていた長距離通信設備の支障移転工事を担当していた私は、岩国駅前に臨設の監督事務所から御庄橋を車で渡り、この付近を度々訪れたが、二軒屋方向に行くには、この付近で車を降りて旧道をつぶして建設中の凸凹道を歩かねばならなかった記憶がある。

古宿側、旧道合流点(廃道) 一軒屋側、旧道合流点(廃道)

JR岩徳線を左に、欽明路道路を右に見上げながら川沿いを進めば、やがて岩徳線の欽明路トンネル入口が見えてくる。さらに進み古宿川に直角に架かった小さな橋を渡った所が一軒屋で、ここから街道は古宿川渓流の左岸から右岸に変わるが、この付近の往時の道は欽明路道路建設によって潰され、川と道が逆に付け替えられている。旧道は欽明路道路の路肩付近を蛇行していた。前述の二つの古絵図(岩国領内全図を古絵図と呼ぶのは失礼かも?)によると、古宿から二軒屋中心部までの街道は、ほぼ古宿川(渓流)左岸の山側を川とともにくねっている。

一軒屋付近(往時と道と川が逆) 一軒家と二軒屋の境(この先廃道)


柱野二軒屋で六~七回にわたる聴き取りと検証に快く応じて頂いた古老K氏は、奇しくも小瀬でお世話になったF氏と同年配の方である。(変な言い方だがK氏は柱野地区の生き字引を自負しておられる。)
一軒屋二軒屋の境は、急峻な大曲がりと勾配である。街道の急曲がり部分は欽明路道路(県道)に切断され廃道になっているが、県道に約100m並行して新道がつけられている。二軒屋一里塚はここから少し下った二軒屋入口付近にあったが、その痕跡は県道路肩の高い垂直状の擁壁に消されてしまっているようだ。「安芸境小瀬より是迄三里。赤間関より是迄三十三里」

塚ノ谷ボックスカルバートと一里塚跡(右側)

〔二軒屋一里塚跡を特定〕
この場所には重要な後日談がある。最後の最後、サーバー転送の直前になって小瀬~勝間峠(熊毛・都濃郡境)までの「陸路狼煙場」を追加記載することにし、パソコンに保存している
「慶応の岩国領内全図」記載の地名を調べていた際、一里塚が標示されている箇所の山側にピンボケのため判読不能な谷の名前があるのに気づいた。「?ノ谷」とある。当初は気にとめてなかったが、拡大してよくみると、どうでも「塚」のように見えるではないか。「塚ノ谷」と記載されているようだ。早速現地で再調査することにした。

一里塚跡付近と想定していた場所には、欽明路道路擁壁に、人一人通行可能な側溝つきの
ボックスカルバートがあり、道路西側山手の沢とつながって、沢水が古宿川に流れこんでいる。「一里山」はこの沢水(ボックスカルバート)の向かって右側(北側)角に記入されている。K氏にご同行願って聞くと「一里塚跡」は知らないが、この沢は「塚の浴」(岩国領内全図では塚ノ谷)と呼ばれているそうだ。おまけにこの付近は、レベルが土石流のため約1m弱高くなっただけで、道筋はK氏が幼少のころと変わっていないそうだ。ついに「二軒屋一里塚跡」を特定することができた。最初の踏査から一年以上も経って最後の最後にビッグニュースだ。欽明路道路の垂直状擁壁の真下付近か横のスペース付近が塚山跡のようだ。机上作成の一里塚のプロット位置については、なんら訂正の必要はなかったが、添付略図に「塚ノ谷」と「水筋」を追加記入することにした。この「岩国領内全図」はそれほど詳細で正確なのだ。ピンボケで地名等の文字が判読しづらいが、それはこちらの責任だ。ここには、その筋による史蹟標示柱を建ててもよさそうにおもえる。この記念すべき日は2009年5月19日のことであった。この添付略図にしてもサイト掲載作業にはいってから、五回程度追加補正を繰り返している。元データの追加訂正と削除、挿入の繰り返しだ。このままでは何時までたってもサイト開設が出来ないが、うれしい悲鳴だ。
(余談になるが、K氏の話では、「塚ノ谷(浴)」の中腹には、昔、二軒屋地区の火葬場があったそうである。当然、死者の霊を弔うため、そこには塚があってもおかしくない。「塚」の語源が霊を弔う「塚」か、一里山の「塚」かは定かでない。但し、火葬は近代になってからだろう。)

二軒屋集落の中心部に小さな橋があり、街道はここから古宿川渓流の右岸に変わり中峠に向けてさかのぼるが、K氏によると、この付近の渓流は茶屋跡の少し上流から二軒屋開祖「林明」の居住跡(後に、昭和初期まで原田氏末裔居住跡でもある。後述。)付近で大きく曲がり、現在の橋の約10m下流を横切り、山根にぶつかって一軒屋へ流れていたそうである。この付近の当時の街道はほぼ現位置であるが、レベルは現在の川底と同じで、川底の草を刈って調べれば10m下流に旧石橋の切り石の一部が見えるそうだ。そのためここからこの先の茶屋跡Y氏宅付近にかけては急坂で、陸軍の六頭立て砲車が難儀をしていたそうである。終戦直後の台風で発生した土石流災害によって、二軒屋人口の約半数、九名が犠牲となったが、このとき付近の様相が一変し、その後の改修によって現在の形態になったそうである。低地部分が土石流で埋まったため、必然的に高上げされたらしい。土石流は現在の欽明路随道北側出口から二つ目の浴(岩国領内全図に「大浴」と記載されていて、K氏の呼び名と一致する。)頂上で発生し、欽明路道路東側杉林をなぎ倒したそうである。
そういえば、欽明路道路建設中にこの付近で一日数ミリの地滑りが発生し、付近の工事が一時中止となり、堰堤の追加等、設計変更された記憶がよみがえってきた。当然、当方の長距離伝送路支障移転工事も一時中止と工期延伸をせざるを得なくなった。今からおもうと懐かしい。
なお、太平洋戦争中、中国に応召していたK氏は昭和二十一年八月浦賀に復員上陸し、柱野駅で下車したが、駅前の橋や鉄橋は流失して川筋は変わっていたそうである。対岸に渡り、柱野の町中を通らず、鉄道線路沿いに新たに作られた下市、古宿間の新道を二軒屋へ向かい、大岩やがら石が転がる道筋をたどり我が家の無事を見た時には感無量であったそうだ。

 ここで、各地で台風被害の話がでてきて、まるで台風被害の実態調査をしているようなので、インターネットで調べてみることにしたが、その被害の甚大さに驚いた。

昭和の三大台風
室戸台風 (S9)1934.9.21 死者2702、行方不明者 334 大阪を中心に、九州から東北まで全国的被害
枕崎台風 (S20)1945.9.17 死者2473、行方不明者 1283 土石流台風・呉を中心に広島県の死者行方不明者85%
伊勢湾台風 (S34)1959.9.26 死者4697、行方不明者 401 伊勢湾沿岸高潮被害・人口密集地
 ・枕崎台風は戦争中の樹木乱伐による土石流被害が多発。広島県の被害状況からみて、山口県東部の被害状況が推定できる。
 大野付近に滞在していた京大の原爆調査団が土石流で全員犠牲になった新聞記事を読んだ記憶がある。


戢翼團義勇柱坂杢之進友虎墓

古市のはずれと一軒屋の旧道(廃道)を含め、二軒屋の史蹟位置等は全て古老K氏に教えていただいた。このうち、二軒屋開祖「林明」については、原田という足軽が朝鮮から連れ帰った「リー・メイ」という現地人(注:玖珂郡志では唐人)がこの地を開墾していたが、後に酒びたりになったので切腹させられた。ばんじん様(後述)右後方の墓地に「李、何がし」と刻まれた大きな墓碑がある旨教えていただいたので行ってみると「戢翼團義勇柱坂杢之進友虎墓」とある。切腹させられたにしては立派過ぎる。「李」と「杢」(もく)は同一か?戢翼(しゅうよく?)とは何か?日本名改称ならどこまでが姓か?杢友虎が朝鮮名か?あるいは唐人名か?周東町の図書館で分厚い各種漢和辞典と悪戦苦闘したが、「リー・メイ」と組み合わせられる漢字はなく、さっぱりわからない。このことが岩国の図書館で文献調査をする動機になった。分厚い書籍類の中に埋もれていた薄いガリ版の藤中里美氏の「柱野中学校教材・柱野の歴史」「柱坂杢之進」(むくのしん)の記事を発見したときには小躍りしたものだ。「四境戦」のとき結成された岩国民兵団についてもこのとき知ることになる。
(この時、イタメ紙で綴じられた「山陽道陸地狼煙場」調査の薄い冊子を手にしてパラパラと立ち読みをしたが、俗称山名と古地名だけで添付地図がないため、難解、位置不明で興味なく、そのまま収納してしまった。これが井上 佑氏の調査文献で、たまたま入手していた「岩国領内全図」の助けを得て、後に威力を発揮することになる。)

「林明」についても「林明は後に日本名与右エ門と言い、寛永十八年(1641)波乱の生涯を終えた。「二軒屋開祖林明之墓」は原田家墓地にある。」とあるではないか。原田又兵衛は足軽ではなく、吉川広家が朝鮮の役に出兵した際、随伴し活躍した武将で由宇の代官を勤め、隠居料として二軒屋を中心とする広範な「金坂」の地までもらっている。「玖珂郡志」によれば、「林明」と応援に出した刀祢長左ヱ門の両名が住んだことにより二軒屋となったようだ。吉川広家は朝鮮の陣の折り、現地の虎を秀吉に献上している。

このことを後日K氏に伝えると、「親父に幼少の頃からよく聞かされ、あの墓がそうだと信じていたのだが....。」とがっかりされた様子である。そんなことはない。伝承というものは貴重で、新事実を混ぜたり訂正してはいけない。墓の間違いは別にして、足軽の混同(原田氏?、林明?)や酒浸り、切腹について何か意味があるのかも知れない。「林明」を「リー・メイ」と呼び名で書いた文献はどこにも見当たらない。原田家墓地の場所を訊ねると、欽明路道路の山側、土石流が発生したあたりの浴を指差し、あの辺りと聞いたことがある旨教えてくれた。浴名は
「大浴」というそうで、「岩国領内全図」にも記載されている。あの付近の道路は当初有料道路として作られたため自動車専用道路の感があり、スピードを出す車が多く、交通事故多発地帯で数年前あの付近で死亡事故が発生している。通行量も多く、車の一時停止、駐車や、歩道の無い道路をうろうろするのは危険だ。残念だがあきらめることにした。

K氏と出会ってから一年経過し、サイト開設作業中のパソコンの前で再度図書館で借りた前述の学校教材を改めて熟読してみると
驚いたことに「貞享三年(1686)原田又兵衛の四男好直の子新左衛門が二軒屋に移り住んだ。岩国徴古館にある原田家の戸籍によれば、元禄三年(1690)『詮議の上、二軒屋永住仰せつけらる。』とあるが、その理由は記していないのでわからない。」とあるではないか。代官職で隠居料までもらった原田氏の末裔に何かあったのか?足軽や切腹に何か意味があるのか?旅人の皆さんはどのように推理されるか?早速、この事実をK氏に伝えると我が意を得たような顔つきだ。こうした伝承は訂正されることなくそのまま継承されることが重要である。しかし、この伝承が果たして何時まで言い伝えられていくのだろうか...。
原田家墓地も危険を覚悟で探索することにし、欽明路随道北側出口から二つ目の浴「大浴」の北側(向かって右側)に木陰に隠れたようになっている墓地を何とか見つけることができた。
「二軒屋開祖林明之墓」とある。写真撮影をし、手を合わせる間も通行車両のタイヤの唸る音がうるさい。駐車場もないため、車一台が何とか駐車できる場所から、帽子を抑えながら通行車両と対向しつつ約200m道路上を歩かねばならず、もっと静かなところに眠らせてあげるわけにはいかないのかと思う。 K氏に報告すると後日行ってみるという。気をつけて行って欲しいものだ。

欽明路道路脇、大浴の原田家墓地 原田家墓地の「二軒屋開祖林明之墓」

柱坂杢之進」については、「幕末、対幕戦に備えて岩国藩でも民兵が生まれたが、慶応元年(1865)二月に組織された戢翼團が最初で、各村々から一名ずつ計百名で組織された。柱野村からも庄三郎の次男で二十八才の若者がこれに加わった。バンジン様の近くに150cm余の自然石の墓標があり「戢翼團義勇柱坂杢之進友虎墓」と刻んであり、無名の一農民が戦功により姓名をもらったのであろうか。側面に「慶応二年丙寅正月」とあるが、死没の時かどうか定かでない。」とある。「柱坂」とは柱野金坂の地名をとったものなのだろうか。色々考えていくと時代が違うとはいえ「リー・メイ」、「杢之進」、「原田氏末裔」が重なって混乱してくる。
「杢之進」は、地元では「ムクのしん」と呼ばれているようだ。最初は「モクのしん」とおもっていた。御庄大畠の墓地の持ち主を訪ねてみたが、何故、当家の墓の横にこの墓碑があるのかわからないそうだ。戢翼團についてもご存知なかった。 

二軒屋中心部、橋の西側にある
ばんじん様(K氏によると三十番神様ともいう)は神仏混沌で、せいしょう様(加藤清正)や鬼子母神が祀られているといわれる。当初100m下流の欽明路道路の路肩付近にあったが道路建設時現位置に移設されたそうで、その跡地には石垣が残っている。ばんじん様内部や周辺はK氏によって綺麗に維持管理されている。

ばんじん様(三十番神様) ばんじん様内部

二軒屋中心部の小橋を渡って最初の民家の庭先更地が茶屋跡(Y氏宅、現在別人が住む)である。現在の道付近に池があり、渓流付近が街道であった。街道脇には立派な楓の木があり池を被っていたが前述の土石流で流れてしまったそうである。K氏によると外郎を売っていたそうだ。

茶屋の対岸、欽明路道路下に石垣と物置固屋がみえるが、K氏によればここは「二軒屋開祖林明」居住跡で、後に、昭和初期まで原田氏末裔が居住したところである。原田氏宅はここから街道筋にかけて、家屋や蔵が数棟あり「外郎」を製造販売していた。高森天神祭の時には岩国からの大勢の参詣者がこの道をぞろぞろと中峠(中ノ峠)・欽明路峠を越え高森を目指し、帰りの人々は商店や露店で買い物をした大きな荷物を背負ったり、ぶら下げていたそうで、この日は原田家と対岸の茶屋(Y宅)で合わせて、外郎二千本の売り上げがあったそうだ。当時はこの先の玖珂天神と高森天神祭は同時期に開催されていた。原田氏の家屋、蔵は前述の土石流で悉く流失している。

橋の上から南西方向をみる 茶屋跡(Y宅庭)この付近の旧道は川付近 中峠側からみた茶屋跡(庭部分


二軒屋を過ぎ、欽明路道路ガードをくぐる辺りから急坂になる。ガード下から150m上がった地点で左下に欽明路道路の随道入口が見えてくる。ここから更に150m上がると、アスファルト舗装から洗濯板状のスリップ止めを施したコンクリート舗装に変わり、西側の山塊を迂回するように街道はカーブするが、この岩が七日岩である。岩の先端部は削られ雑木で覆われているためわかりにくいが、中峠側から見下ろすと道を遮るように大岩が突き出ているのでよくわかる。舗装種別の変わり目がポイントだ。
「玖珂郡志」「七日岩。ビクニ岩トモ。道ノ右ニアル大岩也。往古、筑前ノ者追手ニ隠レ、此岩下ニ七日居レリト云。非人ナドモ此所ニ住ス。二畳敷程モ有之由。今ハ穴潰レタリ。」とある。


七日岩の場所を教えてくれたのは、もちろん古老K氏だ。彼との出会いがなかったら、一軒屋から中峠にかけて柱野金坂の急峻で寂しい山間部を体験する旅のみで終わっていただろう。

七日岩(二軒屋側から見る) 七日岩(中峠側から見る) 中峠(中ノ峠)

鳥越山大峠狼煙場を遠望

欽明路道路の随道入口横付近から七日岩の手前の旧チェーン装着場にかけて、柱野方面を見れば鳥越山大峠狼煙場(岩国領)を遠望できる。足元には欽明路道路の一部がみえる。


七日岩から200mほど先が柱野と南河内廿木(はたき)の村境、
中峠(中ノ峠)(200m)である。
「調査報告書」に玖珂本郷村との村境とあるが、これは間違い。
「慶応の岩国領内全図」によると中ノ峠のすぐ欽明路側に駕籠立場があり、二軒屋側の小さな浴が茶屋ノ浴とあるので、ここにも茶屋があったらしい。(そういえば過去に、玖珂から欽明路峠を越えると茶屋が二軒あったと書かれた書籍を読んだ記憶がある。)「玖珂郡志」にも「廿木境金坂茶屋々敷の峠」、あるいは「中峠、御茶や場下の左に冷水あり。」とある。冷水がある付近は今でも年中路面が濡れている。



中ノ峠を少し下ると右折道があるが、これは南河内の廿木(はたき)経由国道二号線と合流する道である。この付近は最近になって大規模な拡幅工事が行われ、広くて平坦なT状の三叉路になってしまった。何故か標識がないので注意が必要。旧山陽道は左に大きくカーブしながら南下する。

中ノ峠仏ケ浴谷頭狼煙場(岩国領)中ノ峠の南、高度285mの山頂にあった。ここから北西に街道に向けて下る谷が「佛ケ迫」で、「岩国領内全図」には、廿木分かれ手前街道沿い浴に「佛カ迫」と記載されている。このピークは欽明路峠手前の叶木・藤生方面林道分れ付近から東方向に視認できる(後述)。ここから欽明路峠の一部を見渡し、次の野口山狼煙場(岩国領)を見通す。
(注)当初、中ノ峠の直ぐ南の「佛ケ迫」直近のピークと誤認していた。この位置では次の野口山狼煙場を見通せない。中ノ峠から佛ケ迫を南へ350M、欽明路峠手前の叶木への林道師木野線起点から東へ400Mの地点、佛ケ迫頂部が井上佑氏の調査文献にある狼煙場と思われる。この地点は丁度285mのピークで、JR岩徳線欽明路トンネルの真上になる。 略図と写真を差し替え訂正。(2012.04.11)

廿木別れのT状三叉路を左折 廿木別れから中峠方向(北)をみる
(右は当初誤認していた狼煙場跡)

廿木別れのT状三叉路には2010年10月、廿木のM氏が簡易標識を立ててくれた。西下する旅人は間違うことは少ないとおもわれるが、欽明路から柱野市方面へ東行の旅人はうっかり廿木へ入り込んでしまいやすい。何しろここは二軒屋のK氏でさえ、夜間車で二回も入り込んでしまったところなのだ。徒然草独歩も昼間に車で二回も入り込んでしまっている。これで欽明路から柱野、御庄方面を目指す旅人が迷うことはないだろう。廿木方面への間道には「遍路道」の標識が立つ。

廿木別れから金坂切通し区間と換気ポンプ場

ここから先の栗林山林所有者の話では、道筋は往時と変わっていないが廿木分れから欽明路峠手前の欽明路随道換気ポンプ場付近にかけての金坂切通し区間は、緩やかな下りで、再び欽明路峠へ向けては急勾配であったが、祖生方面(欽明路峠の南方)道路工事の残土で高上げ拡幅されている。左東側の山肌を削ることなく、旧道の上に工事残土を積み上げ、谷方向に拡幅されている(当初は山肌を削った残土だと思っていた)。廿木分れを過ぎた付近は約4M、換気ポンプ場付近は7M程度高上げされ、平坦で往時の面影はまったくない。次頁冒頭の誇高率10倍の縦断面図をみれば、往時の中峠から欽明路峠にかけての坂道の形態をある程度想定できる。
(注:のちに判明したが、「玖珂郡志」によれば、野口欽明寺下付近までの広範な地が「金坂」と呼ばれていた。)


県道の欽明路隧道換気ポンプ場の白い建物を右側(西側)下に見ながら(40年前の記憶では、昔のレベルは建物付近から少し上ではなかったかと思う。)進めば、東へ向けて
「林道師木野線」起点がある。この山道は叶木経由、瀬戸内海沿岸の藤生・通津へ至る道で、魚行商人がこの道を玖珂へ向っていた。

この林道分岐点から東をみれば、中ノ峠仏ケ浴谷頭狼煙場(岩国領)
285Mの山頂を見ることができる。ここは中ノ峠から東南方向に細く延びる仏ケ浴の頂上部、JR岩徳線欽明路トンネルの真上付近で、中峠(中ノ峠)南方向では一番高いピークになる。この山は林道の沿線にあり、欽明路峠狼煙場と表現してもいい位いだが廿木の地で欽明路ではない。ここから柱野の鳥越山大峠狼煙場と次の野口山狼煙場(岩国領)を見通すが、山間部に位置するため地形図上から見ても前後の狼煙場を見通せるのはここしかないようだ。この狼煙場は欽明路峠を玖珂方面に下った街道筋からは、欽明路峠の山が邪魔して確認が出来ないので見逃さないようにしたい。厳密には野口一里塚手前付近に確認できる場所があるが、極小狭域に加え判別しにくいので割愛する。(前述更新関連)

叶木への林道分岐点真向かい右側路傍に首に鋭利な切断跡を残す地蔵がある。鞍懸合戦の歴史が今なお濃く残る玖珂に近づいてきた予感がする。この先が
欽明路峠(210m)で、廿木と玖珂本郷村(現、岩国市玖珂町)との村境である。(各峠の標高は「調査報告書」P40による。)

欽明路峠と(左)林道起点・(右)地蔵 林道分岐越しに中ノ峠仏ケ浴谷頭狼煙場をみる 欽明路峠の首切り地蔵

「これより周防のさかいと申す。今夜は多田という山ざとにとどまりて、朝にまた山路になりぬ。これなむ岩国山なりけり。一つふたつある柴のいほりだになく、人ばなれたる山中にみ山木のかげを行く。誠に岩たかく物心ほそき路なりけり。夕になりぬれどきこりだに帰らず鐘の声だに聞えぬ所なり。
(中略)はるゞと越過ぎて又海老坂といふさとに寺の侍りしにとどまりぬ。廿二日なるべし。」

応安四年(1371)、今川貞世(了俊)の軍勢は、この先どの道を海老坂(呼坂)へ向けて進んだのだろう。
山陽古道「相ノ見越」か。「椎木峠越」経由「相ノ見越」か。あるいは「鳴川道」か?それは、この先を進まれる
旅人の判断にお任せするしかないようだ。一応、距離的時間的に短いのは「鳴川道」であるが...。
天正十五年(1587)島津氏征伐のとき、秀吉は「椎木峠越」から「相ノ見越」を下り、         
呼坂経由赤間の関へ向かっているのだ。当然、八万の大軍勢はそのコースを分散したであろう。
五年後の朝鮮の役では、「新道越」を大挙西下することになる。(後述)