ブログのようでブログでない、徒然なるまま追記・更新のページです。
掲載は降順です。  初めての方は末尾から昇順でごらんください。
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完 結


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徒然草独歩の写日記
(2012.02.17)


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2002.1.14〜
2017.12.11(土)9:40
15歳11

さくらちゃん!
16年間ありがとう。
’12.01.07(土)

「坂の上の雲」完結


 ブログ
「徒然草独歩の写日記」
 へ移行しました。





























年末にPCがパンク。今度は起動後即シャットダウン。部品なしで修理不能。
息子の使い古しPCにデーターを移行しようとしたのだが、ホームページの「PCサイト」をこまめにバックアップしていなかった。12月になって坂本龍馬の関係や略図メモの追加・文章のあちこちを推敲していたのだ。大晦日に外付けHDDにバックアップしようとしていた矢先の故障だ。記憶力ゼロの身にとって、こりゃあ大事だ。とにかく立ち上がらないので如何ともしがたい。

幸い、新?PCに増設用SATAコードが付属していたので、試しに故障PCのHDDを取り付けてみた。取り付け冶部が合わないので、そのままPC筐体に放り込むことに。
祈る気持ちで電源ON! 何んとWinXP(C)で認識してくれるではないか! データやアプリも正常だ。
これで何んとか最新の「PCサイト」復旧。正月はデータ復旧・移行作業の連続。ようやく6日に完了しました。旧HDDのマイドキュメントを開くのが少し面倒ですが仕方ありません。

本題に戻って、
        ようやく
      
あけましておめでとうございます
                     ふぅ〜。

年末に、三年越し放映の「坂の上の雲」がついに完結。
「三笠」艦上の軍艦マーチ初演に感激。もう少し長く演奏して欲しかった。

最後のシーンはよかったですね。
宮中で児玉源太郎が乃木希典に、釣り舟に揺られながら秋山好古が弟の真之(さねゆき)に、
それぞれ、
「これから先、一体どうなるかのう」
両者とも目は宙を向き何事か考えしばし無言。
希典は
「何一つ変わりはせん」。真之は「急がねば、一雨くるやも知れんぞね」。
どちらも意味深長です。

司馬遼太郎は、文中においても乃木に冷たく批判的であるが、渡部 謙のナレーション最後の部分に、
         「彼らは、明治という時代人の体質で、
            前をのみ見つめながら歩く。
            登って行く坂の上の青い天に
         もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、
       それのみを見つめて坂を登っていくであろう。」

(だ・えだ)は、只の木の枝ではありません。花をたわわに付けて重たくしだれた枝のことです。
今回、乃木の意味が分かっただけでも大きな収穫がありました。
司馬遼太郎は、最後には乃木希典に花を持たせたのでは?こう思ったほうがロマンがあります。
昭和の近代戦においても突撃することしか知らず、兵の命を消耗品としか考えなかった帝國陸軍と戦争屋に、明治の希典に責任はありません。明治台頭期と昭和初期を混同してもらっては困ります。明治天皇崩御に殉じた乃木希典と妻は日本最後の武士じゃないですか。
吉田松陰先生の教え、
地を離れて人なく、人を離れてことなし、
                 故に人事を論ぜんと欲せば、先づ地理を観よ。」
なのです。

これらの戯言を言いたいばかりに、正月返上でパソコンの復旧を...。
そして、一人旅の最後では、松陰先生と山陽道防長路を何回か徘徊させてもらったことにも満足。

                  
 これで当サイトも完結です。
             (久石 譲の「Stand Alone」を聴きながら...。)

               これから先、一体どうなるかの〜う。   
       
                                   

                    
  ---------------------


2012年12月上旬、「長州藩(萩藩)各宰判・支藩別領内図」を作成し、ルート図巻末に掲載しました。
   これを契機に、引き続き各ルート図に各宰判・支藩別属村名、領域を追加し、2013年1月中旬に完了。
                正直、この作業はいささか疲れました。サイト容量も目一杯。

                       それでは、いい旅を
      
山陽道防長路の旅が、他の地には無い何かを感じ取ってもらえることを念じつつ。


 

  

 道中ご安全に!






YouTubeで、
「君が代」
「日本海海戦」
「抜刀隊」
「軍艦行進曲」
「海ゆかば」
「坂の上の雲」  検索
ついでに、
「ウィキペディア」でも
  同様の御検索を。
ルーツが理解できます。
特に「海ゆかば」の

・帝國海軍軍樂隊演奏
・奥田良三独唱
・東京音樂學校(奏樂堂)
 合唱・管弦楽は必聴。

東儀季芳(とうぎすえよし)曲の第二国歌も...。  
        



(’13.08.20)
以上のうち、私のお気に入り推薦盤は最近削除されたか?残念。こうした貴重なものは早目にCravingExplorerで...。



三宅由佳莉もお忘れなく。
[祈り〜a player]
ピュアな美声と制服が似合う同郷の美しき歌姫。感動します。都内近郊の人がうらやましい。


(’13.08.31)
何んと、CravingExplorerから保存機能が削除されました
単なる閲覧ソフトに...。
罪滅ぼしと東北支援のため彼女のCDアルバムを購入することにしましょう。
WinX YouTube Downloaderを見つけました!


’11.10.01(土)〜10.10(月・祭)
錦帯橋文化の祭典

黄金色ライトアップ&花火

10/01〜10/10
鵜飼遊覧
10/08〜10/10


世界遺産登録記念
「全国錦帯橋花火師大会と鵜飼遊覧」
























































山口国体協賛文化イベント1日10発程度の打ち上げ。素晴らしい10日間のイベントでした。
初日の錦城橋は横山Nさんと二人だけ。国体に皆勤賞はないんでしょうか?
花火はこじんまりとした中小の低い玉。このためアングルに失敗。翌日から修正。
やはり、この時期大掛かりな打ち上げ体制を組むのは無理なのだろう。周囲も乾燥している時期だ。
但し、小さく低い花火の方が水面に映える錦帯橋とのバランスがいいようだ。花火が溢れては元も子もない。

開催期間中の前半は、無風状態のため黄金橋が水面に映える。こんなことは珍しい。
今回、中小の低めの花火を豪華に見せるため、一番苦労したのは花火師では?

当方も腰が最悪なので、トイレを我慢するのに苦労しました。痛む腰と片足を引きずりながら錦城橋を往復するのは辛い。
たった10分のために、痛みをこらえながら橋の上で4時間も待機するのも苦痛です。

苦の字が続いたので、ついでにもう一つ苦の言を。
錦帯橋を踏み台にして花火見物する人が多いのはどうしたことか。両側の河川敷か屋形船、ホテル等から黄金橋越しに花火を楽しむべきです。8月「水の祭典」のように渡橋禁止にすべきでは?
目的を明確にすべきだと思うのだが...。
10分程度の10発なので、まあ〜いいか。
但し、せっかくの黄金橋は踏み台にされて泣いてますぞ。


8日(土)は、いよいよ花火の後の鵜飼遊覧。屋形船一列の小さな小さな片側周回。絵にもならない。

9日(日)は、豪華に飾られた木野村津屋本陣門の写真を撮った後、思い切って鵜飼振興(梶jを訪問しN社長さんと1時間程度雑談。アポなし待ち伏せ訪問に気さくに応じてくれました。成果を期待しつつ錦城橋へ...。

薄暮の黄金橋撮影と花火撮影を通じて、アングルは固定したままだ。少しでも動いたらアウトだ。
花火が終わって、あとは奇跡がおこるのを願う。屋形船が左右二列に並んだ。「やった〜っ!」。
後は、運を天に任せ、鵜舟の周回を待つのみだ。

「もう、その位置でいいぞ〜ぅ!」。これ以上、遡上してくると切れてしまう。橋の上から大声で...。
「もう、いいぞ〜ぅ!」。「そこから回ってくれ〜ぇ!」。「最高〜ぅ!」。「ありがとう〜ぅ!」。
黄金橋と花火と鵜舟光跡。おまけに遊技場撤去令。二度とないチャンスに恥も外聞もない。声がかれました。
初日からNさんと色々検討してきた成果が期待できるかどうか? Nさんと橋の上から拍手喝采。

10日(月・祭)は、これまた小さな片側周回。最終日なのに残念。

10/06 10/09















左右の遊技場撤去令がでているので、記念に背景の山と空を演出してみました。

少し早めの時間に打ち上げるとこんな感じ。これの方が秋の花火らしい?
一先ず、これで完結です。余力とサイト容量があればもう一、二枚掲載してみましょう。


秋のコスモス四輪。野菊か彼岸花?

 またもや、思いつき。
こんな素晴らしい借景での花火は、全国どこにもない。ここだけ。
小規模な花火に限定して、全国錦帯橋花火師大会を実施する。大規模、派手なヤツは大曲でやればいい。
審査基準は水面の黄金橋に映える低めの花火。水面に映る花火が審査対象のため、高く上がる花火は失格。優勝、準優勝花火師には、翌年の8月「錦帯橋水の祭典」の実施権を与える。
一日当たり花火師1、2名、各10発。これを一週間開催。参加花火師からは、何がしかの参加料を頂く。
特別審査員には、道中、錦帯橋見物を一番の楽しみにしていた原田早穂姫君。
審査員席は、錦城橋の真下付近中央の屋形船。錦城橋からみて水面に映る花火より上流に配置。
観客用の屋形船は左右前後に配列。黄金橋踏み台の見物は禁止。終了後はもちろん鵜飼遊覧。鵜飼総覧のように極端な大周回はしない。

屋形船が少なく観覧客が溢れたり、 錦城橋のカメラマンが溢れるので問題がある?
錦城橋の件はボツボツ卒業しようと思うので問題ありません。
無風状態が続くとは限らない? 
 むうぅ〜...。

毎年8月開催の花火のマンネリ化を抑えるためにもいいのでは...?
花火師が談合するようになり、花火の質が落ちるようになるのでダメ?

冗談は抜きにして、もしも世界遺産登録された暁には記念行事として恒常化しては?
題して、
世界遺産登録記念「全国錦帯橋花火師大会と鵜飼遊覧」

        今から、企画検討しないと間に合いませんぞ!



















'10.10.10(日)
「ごじんじ・児玉屋」参照
’11.10.02(日)
帯橋文化の祭典
黄金橋と花火の競演









これも話の続きとして掲載。

山口国体協賛事業の一環として金色のライトアップと花火の競演。初日とはいえ、錦城橋の上はNさんと二人だけ。
8月の「水の祭典」のようにく高く上がる大玉花火ではありませんが、この程度の高さの方が水面に映える黄金橋との対比がいいようです。

両側の照明灯を消灯しているため、寂々とした光景が一層引き立ちます。 シンプル イズ ベスト!
水面は完全な無風状態でした。

国際観光ホテルの窓越しに、お客さんの拍手が大きく聞こえましたぞ!

’11.08.31(水)
錦帯橋鵜飼総覧











今年最後の鵜飼遊覧。鵜舟四艘と黄金橋の競演
話の続きのため、これも、一応掲載しておきましょう。


最後にふさわしく大きく周回してくれました。
素晴らしい光跡ですが、小生は '10.08.20(金)の光跡が一番のお気に入りです。


両側照明灯の消灯は、試行期間終了後も延長実施されたようです。

来年の鵜飼遊覧客と宿泊客が少しでも増えることを祈りたい。


’11.08.26(金)
鵜飼舟光跡とライブカメラ

遊技場廃止令

















































これもEnd宣言しているのですが、横山のNさんからブログ掲載の強い要望があったので...。
サイト容量は目一杯。今後開設予定?のブログのリンク張り等の余裕をみておかなくてはいけないのですが、仕方ありません。

錦帯橋の悪魔の照明灯が26日から三日間消灯の情報を入手。この時期は黄金色のライトアップと鵜飼舟篝火の競演だ。早速、出かけることに。盆明けから腰の調子が最悪。錦城橋の上を歩くのも辛い。

錦城橋の上で、カメラを持った毎日新聞の顔なじみの若い記者に出会う。岩国市が悪魔の照明灯の消灯試行実施について記者会見を行ったそうだ。消灯理由については、'10.08.21のブログで主張しているので割愛するが、やはり素晴らしい。
国際観光ホテルやその他のホテルの観光客も喜んでいるのでは?N社長や鵜匠さんも歓迎しているだろう。一番喜んでいるのは若いアベックか?試行実施とはいえ、市の英断に拍手喝采。いい結果がでるよう期待したい。

Nさんから写真掲載をして強くアピールして欲しいと頼まれたのだが、今回の鵜飼舟の周回は少し小さかったようだ。しかし、黄金色にライトアップされた錦帯橋が水面に浮かぶ様は荘厳さを感じる。屋形船のお客さんも感動しているのでは?

ここで、フト思ったのだが、錦帯橋正面の錦城橋に「ライブカメラ」を取り付け、錦帯橋前の下鵜飼篝火周回をネット公開してはどうだろう。周回が終わった段階で、篝火光跡の蓄積した静止画像を流す。鵜匠さんは前日の蓄積静止画像を見て当日の周回に反映する。コリャア世界中のフアンが殺到してネットがパンクするかも知れませんぞ?錦城橋のカメラマンが溢れたり、屋形船遊覧客が溢れるようになるのでダメ?「花火大会」や「錦帯橋まつり」は間違いなくネットが輻輳するでしょう。確か橋の西詰にライブカメラがあったと思うが、あの位置ではだめだ。
こちらも、MPEG4形式の華奢なムービーカメラを持っているので、一度試してみるか...。MPEG4でもサイトに貼り付けると容量がかさむのでYouTube投稿もいいかもしれない。

よくよく考えてみると、日本全国で黄金橋のような素晴らしい借景の下で鵜飼舟遊覧が行われている地が他にあるとは思えないのだが...。「ライブカメラ」によるPRを本気で検討してみては?取り付け位置は上の方が良いので、水銀灯に取り付けてはどうか。それにしても自動時間設定の蓄積静止画像撮影機能を兼ねたライブカメラがあるのかどうか...。デジタル万能の時代だ、別に難しいことではないだろう。デジ一ではこれをバルブ撮影というが手動です。
また、黄金橋をバックに錦城橋から撮影した鵜飼い舟遊覧映像を中国や韓国にPRしたらどうか?欧米へのPRでは、ライブカメラで補足する。あちらは昼間帯なので効率的です。
夜のイベントなので鵜飼遊覧客は必ず岩国に宿泊するでしょう。ホテルが溢れるのでこれもダメ?

鵜飼遊覧シーズンは、宇部空港から秋吉台・香山公園、夜は岩国御泊り。翌朝安芸の宮島へ。このコースが定着化すればいいですね。平成の篤姫原田早穂君は、二日も岩国に宿泊しているのですぞ。秋の鵜飼遊覧は漁業権がらみでだめ?バンザイ突撃してみては?

岩国市や観光協会はTQCやってるんでしょうか?やってれば全ての問題がとっくの昔に...?
アレッテいいですね! スタッフやグループの意識改革にもなります。公用橋の街路灯なんていう人はいなくなるでしょう。


             

残念ながら、今回の周回は少し小さかったようですが、無風状態のため、水面に映える錦帯橋を捉えることが出来ました。寂々とした荘厳な姿に圧倒されます。錦城橋よりは屋形船のお客さんの方が感動したでしょう。遊技場撤去令の効果はあったようです。

明日は、孫娘の周防大島サタデイフラのため欠席です。











'10.08.21

'10.08.31
記事参照。
’11.06.01(水)
高杉晋作は、果たして通化寺を訪問したか?












拓本の軸装です
End宣言しているのですが、重要なことなので追記です。
昔この地に住んでいた古老が、先日久しぶりに帰郷して通化寺を訪れ、通化寺窯に立ち寄った際の話。

古老が子供の頃、先々代の住職に聞かされた話として、「晋作が遊撃軍駐屯地の通化寺を訪問したのを見た。軍馬に乗り、随行者は少人数で短時間の滞在。端正でかっこよい青年だった。」

通化寺窯田村悟朗氏の話では、先々代の住職は百三歳まで生存した方なので、別に異な話ではないようだが確証できない。
通化寺には「高杉晋作遊撃軍激励の詩」が保存され、境内にはこれを刻んだ石碑もあるが、この時期、長州陸海軍総帥として四境戦を前に多忙な晋作にそんな時間はないと半信半疑だったのだ。功山寺挙兵前か大田から山口へ移動屯駐したのち須々万新営へ出発のときではないかと思うのだが---。.通化寺まで持ってきたことも考えられるからだ。
この時期多忙な晋作がわざわざ須々万、あるいは通化寺を訪問する理由も見当たらない。このためサイト本文では明確に記載しなかったのだが、この話の真偽は果たしてどうか?(激励の詩は、現在は岩国徴古館保管だそうです。)












通化寺の項参照。

’11.04.29(金)
赤間関までルート図精査

福田茶屋の「こっつりさん」
と岩淵市「瀬十郎墓」



坂本龍馬
 和布刈砲撃


























4/24(日)・永福寺前「赤間関一里塚跡」(山陽道終端)まで確認し、長府博物館訪問。帰りに三回目の吉田訪問。下関・長府・吉田方面は、過去何回も探訪しているので、サイト掲載必要ケ所をピンポイントで。

長府博物館では、T学芸員に小川橋東詰南側の吉田市尻一里塚跡を照会。当初から想定していたとおり、小川橋東詰南側から三界萬霊地蔵尊背後に移転したらしいが、御国廻御行程記では小川橋東詰北側に記載されている。どうもここの一里塚は最後まですっきりしない。辻堂峠長府側の壇具川畔「軍神広瀬中佐亡友展墓記念碑」についても照会。

慶応二年六月十七日早朝の長州藩ユニオン号(桜島丸)とロープ牽引帆船による坂本龍馬の和布刈砲撃の件は、直前に薩摩藩に送った兵糧米返却を積んで馬関に入港したそうだ。晋作や白石と龍馬の親密な関係がよく判るが、操船術に長けた亀山社中の参加は晋作たちを鼓舞したであろう。それにしてもやることが素早い。用意万端整え今や遅しと龍馬たち操船のユニオン号到着を待ちあぐねていたのだろう。館内には、龍馬が戦闘模様を姉に宛てた有名な手紙の写しが展示してある。朱入りの原本は確か京都博物館蔵だったとおもう。
・6/7幕府四艦周防大島砲撃 ・6/12晋作丙寅丸で久賀沖幕艦夜襲 ・6/14龍馬桜島丸下関入港、夜に晋作帰関  ・6/15晋作と龍馬、明け方海峡に立つ(白石正一郎日記) ・6/17小倉口開戦 

亀山社中は発足当初、薩摩藩の援助で購入したワイルウェフ号を慶応元年5月に難破沈没させているが、龍馬は、薩摩藩名義で長州藩が慶応元年十月購入したユニオン号を運用。長州藩が急遽必要としたため、慶応三年伊予大洲藩購入の「いろは丸」を借用する。亀山社中改め海援隊使用契約1ケ月後の4月19日長崎を出航した「いろは丸」は、23日笠岡沖で紀州藩明光丸と衝突、備後鞆の浦へ曳航中鞆の浦沖で沈没。もち論、ちゃっかり屋の龍馬は大洲藩購入に当たり仲介を。紀州藩との交渉では、巨額の賠償金を。これが有名な「いろは丸事件」。
ユニオン号(桜島丸改め乙丑丸)でなくて良かった...?


4/29(金)・どんだけ道を含む厚東・厚狭方面の未確認区間踏破と写真撮影。4月になって二回目の訪問。

区間踏破時期が順不同になったのは日和山公園等の晋作関係写真のサイト掲載を急いだため。容量オーバーでルート図掲載不可になっても、晋作関係の史跡写真だけは早めに追加掲載しておきたかったのだ。これに関連する博多の野村望東尼平尾山荘は6月中旬までには訪問予定。高速道「休日1000円」終了後では足が進まない。
   
蓮台寺坂入口の集落、福田茶屋では、地元の女性に路傍左にある「こっつりさん」と呼ばれる小さな石ころ(石碑)を案内していただく。小さな屋根まであって花がささげてある。喘息持ちの旅人がここで行き倒れになったそうだ。「こっつりさん」の意味を尋ねたが不明。「こっくりさん」「ぽっくりさん」がなまったのかもしれない。蛤を食べて死んだという岩淵市路傍の小さな瀬十郎墓(石)を思い出すが、これより相当小さい。旅人は見過ごさないようにして欲しい。器用に小さなビニール波板の屋根をくっ付けているので判るとおもうが...。
今でもこの小さな集落には「茶屋講」と呼ばれる講がある。別に営業用の茶屋があった訳ではないが、往時は長い蓮台寺峠の袂に当たるため、地区の人々は旅人を水や茶で親切にもてなしていたようだ。これが地名「福田茶屋」の謂れらしい。厚狭七日町〜吉田の人ばなれたるわびしい山間部中間に位置する小さな集落だ。

ここまで書いて路傍に無造作に転がる岩淵市の瀬十郎墓のことが気になった。小さな無名石なので何も知らない人が庭石や漬物石を目的に持ち去る恐れがある。車がぶつかり粉砕される恐れもある。簡易史跡標識が必要だ。ここは一度防府教委のK女史に電話しておこう。

これでようやく赤間関までルート図完成です。


 

通化寺の項に追加掲載




(参考文献)
「龍馬とお龍の下関」
古城春樹著(瞬報社)

’11.04.14(木)
高杉晋作の命日
 高杉晋作と
 野村望東尼



















前日の13日、NHKTV番組歴史秘話ヒストリア「高杉晋作 “愛され・やんちゃ”革命!」が放映された。
副題に「〜時代を変えた男の魅力〜」とある。

容量オーバーが心配で「日々是見聞録」は3/11に完了していたのだが、嬉しくなって追加掲載。

下関勤務を経験したばかりに退職後下関に居ついてしまった同郷の会社先輩Hさんがいる。歴史検定を受け、観光案内や学校の講演等のボランティアをやっているようだ。岡山弁訛りで児童に講演しているのを想像するとほほ笑ましい。今回の一人旅で、高杉晋作のフアンになってしまった小生には、彼の気持ちがよく理解できる。「通化寺」遊撃軍本営の説明の中で晋作の足跡を訪ね、萩城下・吉田清水山・長府・竹崎・新地等に足を運んだが、確かに下関は高杉晋作を中心とした幕末維新の歴史の宝庫だ。逆に言えば、あの時代彼の果たした役割は非常に大きかったといえる。

番組の冒頭、渡邊あゆみアナが「明日は晋作の命日」と紹介する。タイミングのよさに嬉しくなった。時間の関係からか「望東尼」や愛人“おうの”が登場しなかったのは不満だが仕方ない。
出来れば、「晋作伝」として「大河ドラマ」に取り上げてくれればと願うのは小生だけではあるまい。幕府や京都を巻き込んで、松陰や周布を絡ませ、若年の頃の葛藤。最後は望東尼や妻まさ(雅)・愛人おうのに看取られた臨終。女性三人の葛藤。最終回は望東尼の宮市天満宮への参篭断食潔斎と死。そして討幕軍の三田尻出港。回顧するのは伊藤博文、又は東行墓を見守った愛人おうの(梅処尼)か妻雅子。一番長生きした雅子がよさそう。こりゃあ、絶対「龍馬伝」よりは絵になりますぞ。誰か脚本書く人いませんか?
今回のTV番組は当然、録画しておいたので永久保存版の一つになりそうだ。

4月になって、サイトのロールオーバー効果写真をトップページの「高森」と「御庄の渡し場」を除き単品写真に変更した。これで約1Mb余裕が出来たので赤間関方面ルート図にメモの追加や写真掲載が可能になった。ボチボチと作業することにしましょう

高杉晋作と望東尼の関係も、もう少しサイト本文に補足したほうがよさそうだ。これもいじり回してみよう。最近畑仕事をする度に腰の調子が今一。パソコンの前に座るのが億劫になります。ボチボチやりましょう。













慶応3年(1867)
4月14日死去 享年29歳

梅処尼:明治42年没67歳
妻雅子:大正11年没79歳



晋作・望東尼関係
通化寺の項に追加掲載


’11.03.11(金)
「日々是見聞録」
 の終わり(2)






赤間関まで
 ルート図着手



 「あとがき」


(若干のサーバー容量がありそうなので、遡り追加掲載)

2011.03.11(金)14:46発生の有史以来未曾有の超巨大災害。
今後の対応は日本人の真価が問われる。国内・国際的な一致協力的救援活動を期待したい。
過酷な環境のなか、現地で対策に追われる東電スタッフ・協力部隊の献身的努力に敬意。頑張ってほしい。
果論かもしれないが、これほどの超弩級重要設備の運用には、「万が一」ではダメ。「万々が一」の危機管理が必要だ。それでも、人間の考えには限界があることを知っておくべきだ。

サーバー容量を問い合わせたところ、やはりMb単位でしか判らないそうだが、サーバー使用率94%が判った。単純計算で約900kbの余裕がありそうだ。赤間関まであとルート図5、6枚程度掲載が可能と思われる。極力データ量の少ないルート図を作成掲載することに。4月末完了目途にサイト容量の許す範囲内で掲載予定。
余力があれば一里塚と陸路狼煙場一覧をルート図巻末に掲載予定。

今回ホームページを開設した目的は、各地で古老の貴重な話を聞くにつれ、そう遠くない間にこうした伝承がすたれて、消えていくのではないかと危惧したことが大きな理由です。古老の大方が家族と離れて一人暮らし、あるいはこれに準じた生活をされています。これらをまとめた当方自体の断片的なデータベースも、PCの寿命と、生身の寿命とともに消えてしまうのは間違いないでしょう。サイトとして公開しておけば、ある程度の期間は大丈夫ではないかと思います。唯、これも世代が変わればどうなるか保障しかねません。このサイトに目を通した方々によって広く伝承されていくことを望むものです。




’11.03.01(火)
「日々是見聞録」の終わり(1)







「日々是見聞録」も丁度一年経過。このページは、「椙杜八幡宮・板絵着色三十六歌仙図」・「二王清綱の刀」等、サイト本文の補足用として開設したのですが、何時しかブログ風になってしまいました。玖珂、高森を中心とした四季の折々や「伝太閤門」・「大内時代の永興寺」等、道中の参考になることを少しは紹介できたのではないかと思います。

サイト容量も目一杯?丁度、潮時のようです。
今後、写真をメインのブログ移行を検討したいと思います。

それでは、よい旅を...。



’11.02.27(日)
小郡から
 周防長門国境まで
 ルート図完成











午後から降り出した雨のなか、周防長門国境碑の写真を撮影。一先ず、ここで完結です。恐らくサイト容量はぎりぎりでしょう。Mb単位でしか判らないのですが、240pixの写真が4、5枚で終わりのようです。この間、本文の方の「丸子坂」の略図等のサイズ縮小変更をしたり大変でした。可能なら、このページにも「野村望東尼」・「三田尻御茶屋」」・「御舟倉跡通堀」の写真を入れたいのですが...。
一枚、一枚挿入確認しながらやってみましょう。だめなら、錦帯橋のショットを何枚か削除する手があります...。


帰り道、小郡支所玄関前の「百万一心」(一日一力一心)拓本碑の写真を一枚。ここはコース外。
毛利愛好会代表石川和朋氏作成資料にある吉敷郡内ルートの拓本石碑5ケ所は全て確認出来ました。

これも、大道・陶方面探査の前日2月19日(土)に、たまたま周東図書館で石川和朋氏の講演を聴講して得たものです。最後の最後に、どうしてこんな素晴らしい出会いがあるのか不思議です。
この拓本碑は吉敷郡を中心に山口県に26ケ所。広島県には安芸吉田の元就墓前等3ケ所。長府藩士・武田泰信が発見・拓本の安芸吉田の郡山城石垣人柱の現物はいくら探しても不明であることは有名な話。






錦帯橋写真一部削除
02.20の記事へ写真追加




大道・陶市ルート図
 メモ参照



’11.02.20(日)
岩淵峠の郡境碑
(佐波郡・吉敷郡)

三田尻萩往還史跡
 
「東津白髭大明神之前」狼煙場と「小郡饅頭













16日の岩淵峠郡境の件は、会話の過程で当方も、K女史も勘違いしていたようだ。(案外、当方のハヤトチリ?)
やはり絵図にあったという岩渕峠の郡境碑は正解のようだ。岩淵で地下の人に聞くと、吉敷郡大道村(岩淵含む)は、防府市と郡またぎで合併したそうだ

佐野峠を越える線は明治十年に
岩淵観音山の南、遠ヶ崎を越える線に変更されているが、そこには根元が折れて修復した郡境碑があるので間違いないだろう。「東佐波郡」・「西吉敷郡」、裏に「祖谷川中央界」とある。郡と界の箇所でポッキリ折れた跡がある。明治十年のものか?三田尻宰判と小郡宰判の境は先日の情報で別に問題はない。一応、K女史にはその旨電話しておこう。

今日は、三田尻の萩往還終端史跡と野村望東尼関係史跡を訪ねた後、岩淵・大道(台道)から小郡まで。
萩往還終端となる「三田尻御茶屋」は石垣と白壁に囲まれた広大な敷地だ。県内に残る御茶屋として唯一、区画の明瞭なもので国の指定史跡となっている。野村望東尼関係史跡を含め、三田尻の史跡は現存し、その全てが綺麗に整備されているのに感心する。

小郡饅頭「金子老舗」工場の脇、白髭社祠のある付近「東津白髭大明神之前」狼煙場まで確認して本日の行程終了。ここの小郡饅頭は有名。賞味するのは30年ぶりか...。こんなところに狼煙場があったことは金子老舗の若旦那は勿論ご存じなかった。小郡御茶屋と密接に関係した平地の狼煙場だ。「今度からリュックを背負ったお客さんが増えますよ。知っといて下さい」。祠を今以上に維持管理していただくための方便だ。
「うそも方便」の方便とは違います。

帰宅は20時。












通化寺、高杉晋作の項に追記



’11.02.16(水)
富海から
  宮市・佐野峠へ

防府市教育委員会訪問








































前日の富海に続いて防府方面の現場調査。浮野峠は、前日は富海側から一往復。今日は牟礼側から一往復。最後の復路はジョギング。忙しい。「浮野峠道路改修碑」前の旧道も間違うことなく踏破。

浮野峠の「おこん川砂防堰堤」手前付近に、山陽第二同軸ケーブル(2COX)の埋設標石を発見。懐かしい。この後敷設された第三同軸ケーブル(3COX)ではTV映像・音声やFM放送音声も伝送していたのをご存知ですか?長距離伝送用光ファイバーケーブルが登場するまでは最高スペックのアナログ長距離通信伝送路だったのです。現在でもオーディオやカメラでアナログにこだわる方が多いのと一緒です。役目を終えてひっそりと峠道に廃棄されて足元に眠っているのを思うと感慨深いものがあります。

大崎渡し場まで完了してから防府市教育委員会へ。桑山近くの文化郷土資料館内にある。
疑問点について全て解消。
・国衙道標(1)(2):H18年3月に撤去。防府市文化郷土資料館に移転展示。早速、現物を撮影。
・大崎渡し付近の植松八幡宮:河川改修によりH8年3月現位置に移転。これにはビックリした。これに関係する付近の往還筋は消えている。これも大収穫。
・大崎渡し手前の佐波川左岸土手道ルート(上記関連
):調査報告書記載の土手道ルートは違うようだ。県教委報告後の校正ミスらしい。古祖原を過ぎた付近から土手道の東を南下するが、道筋は消えている。これも納得。
・岩淵峠の郡境碑:絵図にあったという郡境碑(現状なし)は、三田尻宰判と小郡宰判の境目塚らしい。これで納得。ここはまだ防府市域内なのだ。本来あるべき長沢池付近の郡境碑(佐波郡・吉敷郡)についても、電話で台道の郷土史研究家に聞いてくれた。ここは、文献にも、現場にも郡境碑に関するものはないそうだ。

以上、大収穫。アポなし訪問、愚問に親切丁寧に応対してくれた教育委員会のK女史に感謝。


前日の富海では、本陣前で偶然出会った史談会幹事のSさんに船蔵通り飛船問屋大和屋政助の船蔵を案内してもらい現地で説明してもらった。往時は蔵口まで海でここに着舟していたそうだ。

政助は、大和挙兵で敗れた中山卿を飛船で連れ帰り、この蔵の二階にかくまったそうだ。高杉晋作も俗倫党の追及を逃れ、ここから政助の飛船で馬関の白石正一郎宅経由望東尼の元へ逃れている。
また、英国密航留学中の伊藤と井上が馬関襲撃を予知し、急遽帰国した地は横浜経由富海だと思っていたのだが、英艦で横浜から国東半島姫島まで到着。ここで船を継いで富海に上陸したそうだ。パスポートのない二人の密航者がどうやって富海まで来たのか思っていたのだが、これで納得。飛船(ひせん)は、漁船を少し太く大きくした形態で、帆と櫓を備えていたそうだ。

富海浦の飛船は、瀬戸内海の旅客船兼貨物船の役割を果たしていた。船主は一〇人くらいで飛船数六六艘であったという。三田尻にも飛船はあったが、富海の飛船は危険をおかしても出航したので、志士の多くは富海飛船を利用した。吉田松陰も嘉永六年(1853)の一〇年間の遊歴の旅は、荒天が続いたため三田尻からの出航をあきらめ、富海から出帆している。

富海史談会は最近発足したそうで、表示板等の新設や整備をやって地域の活性化やPRを目的とした活動をしていくそうだ。こうした人たちの努力を多としたい。
略図メモが増え、これに伴いデータ容量も増えるが仕方ない。そんなことより、どうしてこんなに素晴らしい出会いが多いのか不思議だ。

このあと、佐波川を渡り、佐野峠から岩淵峠の終端まで大急ぎで歩き折り返す。岩淵峠終端の沢渡り三ケ所付近の下りはかなり荒れている。おまけに歩行を妨害するかのように沢の手前付近の山道真ん中に伐採樹木を置いている。三カ所もある。多数の枝が付いたままなので、跨いだり、潜ったり、踏んだり、狭い山道を通行するのに苦労。トゲの付いた木で結構太い。これを往復するのだから大変だ。猪の通行妨害のためならいいのだが...。復路はもちろんジョギング。

以上、非常に効率的で満足出来た一日だったが、いささか疲れた。帰宅は19:30.。これで大崎渡しまで一挙に公開できそうだがサイトの容量が心配です。

今日は深夜作業になりそう...。





Coaxial Cable










4日後、長沢池の境は単に防府市・山口市境と判明。











横浜で対英国公使と避戦工作後富海へ

’11.02.11(金・祭)
都濃郡境以西
ルート図一部公開














周防・長門国境まで机上作成完了。当面、徳山城下まで実査したので公開。
容量が気になり、縮小地図にこだわったため、史跡プロットの書き込みに苦慮。
メモ書き込みが増えたため、一区間あたりの容量が予定に対し約30〜40kb程度増えそうだが仕方ない。
長門国境まで8枚。一枚当り約120Kb前後。何とかサイト容量内に入るよう願うのみ。どうなることやら...。


机上作成の際、「調査報告書」記載事項をベースに詳しく踏査している「百街道一歩」氏の道中記が非常に参考になった。現地で史跡が不明なものはあまり時間をかけないようにしよう。狼煙場を除き、極端にコース外となる史跡も省略予定。
但し、防府三田尻の萩往還終端と桑山の望東尼終焉の宅・墓等は割愛するわけにはならないだろう。
防長の山陽道陸路狼煙場の詳細位置も、ここまで井上 佑氏の文献で全て確認できた。

望東尼終焉の宅と墓は、先般玖珂の病院の待合室にころがっていたぼろぼろの全国道路MAPに載っていた。6、7年前所用で防府へ行ったとき、防府桑山付近をブラブラしていて偶然出会い、当時は説明看板板を読んでもピンとこなかったが、現在の自分には重要な史跡だ。「歴史の道調査報告書 萩往還」に望東尼終焉の経緯が詳しく掲載されている。何れも奇遇というよりはラッキーな出会いだ。これが、ルート図に三田尻の史跡を含める動機に。容量が増えるが仕方ありません。

ところで、広島県には「調査報告書」が無いのをご存知ですか?以前「ごじんじ」の件で大竹の図書館を訪問し、いくら探しても不明。検索してもらっても不明。「そんなことは無いだろう。他県はあるのに」。広島県教委に問い合わせてもらったら「広島県は作ってません」。
税金から助成があったのに何故作らなかったのか?聞く気もおこらなかったが、広島に長年居住していた身には多少疑念がわく。「ひげの梶さん」が重宝されている意味がわかった次第。















通化寺、高杉晋作の項に追記




「ひげの梶さんと
 西国街道を歩こう!」

  
(南々社)
’11.02.01(火)
周防国西部
ルート図作成着手













先日から、長門国境まで旧山陽道ルート図の作成に着手。
国境は佐波川の大崎渡し場までと思っていたのだが、小郡・嘉川の吉敷郡までとは知らなかった。国衙の位置から考えれば当然のことだった。嘉川まで実査しルート図を作成することを考えるだけで、嫌気がさしたが仕方ない。
大方のルートは知っているので、実査はピンポイント的に史跡を押さえて、異国の旅人向けにルート公開を優先。
東京の「百街道一歩」氏のように国立図書館を利用できる方は別にして、地方の旅人は苦労しているのかも。

このサイト容量も余すところアト1M。残り容量に何とか入るかどうか。このサイトも当初予定に対し倍以上に。史跡の写真掲載は無理だろう。狼煙場についても100%確定・地図上プロットできるかどうか未定。
本項「日々是見聞録」も2011年からフリーのブログへ移行する予定であったが雑用多く、腰の調子も今一...。体と相談しながらの作業です。

当方のホームページ作成ソフトはHPB12。13からヤフーかgoogle地図へのリンク張りができるのだが、VerUPは勿体無いので手書き作業せざるを得ない。但し、史跡とメモの書き込みは手書きが一番いい。机上作業を優先し完成の都度公開予定。実査は腰の調子と相談しながら行うことにしましょう。
出来れば赤間関まで公開したいのですが容量がどうなるか...。



順次公開予定
’11.01.17(月)
いわくに写遊倶楽部
一月分ブログ投稿















先月から引き続き「通化寺窯」陶芸作家、田村悟朗氏を紹介。
今月は秋の「登り窯」を中心にまとめてみました。

これでようやく重荷から開放されました。

文中に、お弟子さんの若い女性を紹介させてもらいました。
この人、ブログを開設していますが、写真のセンス抜群です。
彼女のカメラはkissです。物より腕、腕よりセンスです。
気になる方は検索してみてください。
    →「KOUNO TOUKITENの日々」









いわくに写遊倶楽部」のブログは2013年末閉鎖されたため、
当方のブログ
「徒然草独歩の写日記」に移行掲載予定。 2014/01/04移行掲載しました。


’11.01.14(金)
パートナーの誕生日











今日は我がパートナーの9歳になる誕生日。人間に換算すれば52歳のお嬢さんだ。
月日の経つのは早い。もう4、5年は生きてほしい。そうすれば、今年古希を迎える小生と同年輩程度になる。

出来れば一緒に....?

8年前に作成のアニメ
生後5ケ月目の初めての散歩。名前を“さくら”というチワワです。

’11.01.11(火
間寛平 アースマラソン
玖珂庄を駆け抜ける

















午前11時、玖珂の歯科医院を出ると、国道沿いに人出が。直ぐにピンときた。
待つこと暫し...。ヨボヨボとやって来た。
「寛平さんがんばれ!」。暖かい声援に応え、頭上にかざした赤い手袋が揺れる。

一旦帰宅し、カメラを積んでアトを追う。岩国市街を抜けるか?それとも近道の旧山陽道を抜けるか?
欽明路道路を下り、柱野古宿のひなびた食堂で昼食。思案橋前を御庄へ。
関戸から左折し、「吉田松陰先生東遊記念碑」前を小瀬峠へ向かう。

「おとうさん。危ないからアトを追うのは止めて!」。自転車で伴走するお兄さんの絶叫が...。
狭い道を追い抜くのは寛平さんに悪い。関々新道から先回りすることも考えたがあきらめた。

本当は小瀬峠越えの写真を撮りたかった。案外、峠越しは歩いたかもしれない...?
御駕籠建場跡で足を投げ出しペットボトルを...?これは失礼になるだけで、スクープにはならないだろう。
無事に大阪に着いてほしい。

   
  思案橋付近 多田見坂入り口付近
(おとうさん、そこどいて!)

’11.01.01(土)
  お正月



早朝、玖珂天神と高森天神へ。
玖珂天神の獅子は手をたたくだけで舞ってくれます。但し、賽銭は高いですぞ。
初日は出ているのですが、小雪が舞っています

午後から岩隈八幡宮へ参詣。さすがここは格式があります。このあと椙杜八幡宮へ。

    
      玖珂天神 高森天満宮

’10.12.15(水)
小瀬の関門付近旧道
小瀬川米山之内籾ノ子狼煙場











岩国へ所用のついでに、米山団地受水槽左横渓流付近の店口の水に切石が4、5本架かっていた箇所の写真を撮りに。
ここは文中説明だけでは、旅人が判りにくいのではないかと気になっていたところ。
雑木が茂っていて見通しが悪く撮影を断念していたのだが、写真に旧道筋を記入することにしました。

ついでに、米山団地入り口からみた小瀬川米山之内籾ノ子狼煙場のあった「五人代山」尾根の写真を一枚。2009年2月古老F氏に旧道の説明を受けていて足元ばかり見ていて失念していた。ここから狼煙場が正面によくみえます。




サイトに追加掲載
’10.12.6(月)
丹波の黒豆収穫












暖かい合間を狙って、丹波の黒豆の収穫をボチボチと...。
例年に比べ2週間弱早い作業。

私の場合は、殻を手で一つ一つ潰すので根気の要る
作業です。

猛暑の影響もなく、順調に育ったようです。






’10.12.3(金)
宇野千代デザイン
薄墨桜の着物

 岩国市周東図書館













宇野千代がデザインした薄墨桜の着物。
図書館内の宇野千代常設展示コーナーに期間展示されています。

2004年4月4日、中市の文学碑建立十周年と周東町町制施行50周年協賛記念式典の際、
宇野千代の元秘書、藤江淳子氏から寄贈されたものです。この着物は彼女の所持品で、
自らデザインした薄墨桜があしらわれた小紋です。
宇野千代フアンの方は必見。12月15日まで展示。


 
 




’10.11.28(日)
 高森天神祭










前日からの高森天神祭。
上市の受光寺、高森本陣前付近から市尻の天満宮前まで
露店が並び、この地方最大の賑わいです。

今日はNHK大河ドラマ「龍馬伝」の最終回放映日。
いよいよ、今年もあと一ヶ月。
通化寺の紅葉も終わりです。






’10.11.23(火)
通化寺の紅葉












紅葉もボツボツ終わり。ここの紅葉は温度の高低差が大きいためか見事です。
伝雪舟庭園の池水が抜かれていました。(この時期、自然渇水するようです。)

     

’10.11.20(土)
 玖珂天神祭










11月第3土、日は、杉隆泰末裔岡氏創建になる阿山の玖珂天神(菅原社)秋祭り。
大・小行司の道中奉納の後、大行司衆の踊りの奉納。
次の第4土、日にはこの地区最大の人出で賑わう高森天満宮の天神祭が。
天神祭が終われば、玉ねぎ晩生の植え付けです。


’10.11.18(木)
一人旅の老人達

       道路標識























上差川の掛ノ坂付近をうろついていると、京都の旅人に出会う。今日は玖珂から徳山を目指すという。
74歳の老人だ。玖珂の旅館がたまたま休みだったため、岩国駅前のビジネスホテルに折り返し泊まったそうだ。


関戸から岩国往来を山陽道と勘違いし、錦帯橋前から道祖峠へ向かったそうだ。おまけに道祖峠から東南方向の山へ入り込んで柱野市も通過してない。迷走どころの話ではない。案の定、欽明路峠の七曲坂は玖珂へ右折せずに真直ぐ祖生方面へ南下し、途方にくれたそうだ。

ここは2年前に玖珂支所へ簡易道路標識設置をお願いしたのだがそのままだ。中山峠の廿木分れも岩国市へお願いしているのだが...。この付近は、「夕になりぬれどきこりだにかえらぬ、人ばなれたる山中」なのだ。もう少し異国の旅人に親切であってもよさそうだが...。


中山峠廿木分れの標識は最近になって廿木(はたき)の住人Mさんが手製の標識を立ててくれた。なにしろここは、廿木方面間道が立派なため、地元二軒屋の主であるKさんでさえも夜間、玖珂方面から車で2回も間違って廿木へ入ってしまったところで、「徒然草独歩」も同じ間違いを2回経験している。これで東行する旅人が間違うことはないだろう。欽明路峠ももう少し様子をみることにしよう。こんなところに膨大な税金をつぎ込むことの是非は別にして、もう少しきめ細かな配慮があっても良いのでは。

前日の17日には、同じく掛ノ坂で69歳の旅人に出会う。
こちらは岩国室ノ木の住人。JR柱野駅に車を置いて、勝間か大河内を目指すという。この区間はもう何回も経験しているそうだ。
リュックサックに「山陽道踏行・岩国〜徳山」の札をぶら下げている。

周防国東部の街道歩きは、国道からはずれているため静かでのどかな旅を楽しむことが出来るが、岩徳線沿いのルートのため往復するのに便利がいい。参考になった。


御両人とも、パソコンをお持ちでないためか、かなりラフな地図を携行し、史跡も目に付く程度のものしかプロットしてないが、これは致し方ない。気楽な旅ということだろう。

以前、「日々是見聞録」を開設した頃、二軒屋と欽明路峠付近で、「百街道一歩の道中記」を基にルートと史跡を詳細に調べた地図を携行し、西下する広島、京都の夫婦連れ別組に出会ったことがある。一組は、サイト本文を印刷、携行していて感心したものだ。
広島の男性が「貴方はひょっとして二王屋敷付近で一歩さんが出会った老人では?」。「私が老人なら、貴方も老人ですよ」。よく読まれている。ただ、両組とも玖珂野口下「亀山」付近の鉄道沿線ルートを誤認していたのにはビックリ。土地勘の無い方の読解力には限界があるようだ。早速、一歩氏に地図を送付し掲載をお願いしたことが...。
折角歩くなら、この夫婦連れ二組の方が正解と思うのだが...。タデ食う虫も好き好きということか。
帰宅して鏡を見る。むうぅぅ...。老人か...。

ところで、何故、掛ノ坂を二日もうろついたのか?
この付近から見た鞍掛山、野口、欽明路峠方向の写真を撮るため。鞍掛山が低いため背後の山に溶け込んで区別できない。このため鞍掛山のみにスポットライトが当たる瞬間を待っていただけ。二日目にようやくその瞬間が。ただそれだけ。ふぅ〜。











サイトに追記
2011.11七曲坂に
標識設置される

廿木分れはまだ未設置。

 
    芸術品です。






’10.11.14(日)
蒼の霞に浮かぶ
   錦帯橋










今日は一日畑作業。
丹波の黒豆を抜いて、「島立て」にして乾燥。
例年は11月下〜12月上の作業だが、3週間も早い。
夏の猛暑のせいか?
10中から黄色になった葉抜きをするのも珍しい。
10月の枝豆はビールのつまみに最高だったので、正月用も期待しているのだがどうなることやら...。

玉ねぎ早稲もついでに植え付け。絹さやの種落しも。


夕方になって錦帯橋へ。
世界糖尿病デー協賛でブルーのライトアップ。

一昨日からの季節はずれの黄砂で躊躇していたのだが、青く弱い靄のようになっていて結果オーライ。

久しぶりに鵜飼篝火光跡撮影の常連に出会う。


’10.11.07(日)
田村悟朗
「山里の窯出し展」





会場の石霜庵へ。
自宅の和室と庭を開放した展示。

お客さんと一緒に”リンドウ”をめでながらお茶をよばれる。
大黒山の麓に広がる雑木林が美しい。



11月23日まで
’10.11.03(水・祭)
お通りと母衣
  東城町







広島県比婆郡東城の東城・世直神社秋祭りの“お通り”。
いわくに写遊倶楽部のメンバーと...。

今まで何回か素通りしていたのだが、古風な町並みが続く。
古くから砂鉄の産地として知られ、西城と並び奥出雲街道につながる県北の要衝。


武者行列のクライマックスは、最後部の華やかな装飾を施した女子の母衣(ほろ)や華童子(はなわらべ)の行列。母衣の華やかさにヒバゴンもたまげる?

広島に長年住んでいたが、こんな素晴らしい秋祭りが帝釈峡近傍の県北の地にあったのを知らなかった。地方の人々の尽力、努力に拍手。

広島在勤中の元同僚B君に出会ったのも奇遇。元気そうでなにより。




検索
「東城町」

’10.10.31(日)
猪出没!
差川往還の決闘





雨上がり。差川兼付米川駅前の往還土手道をトロトロと旅する猪を発見。
最初は瓜坊かと思ったが、よくみるとお年寄りだ。


デジコンを構えた途端、烏が一羽やってきてしばしにらみ合い。
このときには、上方に構える旅人が有利に見えたが、やがて烏が飛び立ち頭上から二度、三度攻撃。旅人の唸り声(悲鳴?)が聞こえる。
頭上の敵機には敵わず、旅人はほうほうの態で竹薮の中へ。

珍しい決闘に見とれて、次のシャッターを切るのを忘れてしまった。シャッターチャンスはあったのに...。
やはり、並みのカメラマンにはなれないようだ。

欽明路峠の猿の親子のときもそうだったが、ズームの利くデジ一を常時車に積んでおく必要がありそうだ。但し、撮影に間に合うかどうか...。




’10.10.25(月)
  〜
26(火)
   
通化寺窯の登り窯

陶芸作家「田村悟朗」


造形よりも焼くことにこだわり、自然釉窯変の魅力を追求する田村悟朗氏の焼成。

今回は、登り窯の窯焚き。25日9時に火入れ、翌朝9時完了予定です。.
助っ人3人の応援を得、4人体制による不眠不休の24時間。

先ず、榊と御神酒を窯にささげ、火入れ。


湿気を飛ばす予備段階の焙りが終わり、午後になって本焚きによって温度が上がり始めると、燃焼ガス(炎)が一の間(第一焼成室)のさま穴(火格子)を直進し、やがて両側の火吹き穴から黒煙や炎が噴出するさまは壮観です。




横焚きを終えた一の間の小口(横の焚口)を塞ぎ、二の間横の小口から薪を投入するうち大梅山の空が白ばんできます。
さすがに、この頃が眠気と疲れがピークに...。

最後部の煙道から真っ黒な煙と炎が吹き上げる状態になると、今回の窯焚きも終盤に...。炎が静まり、最後に各煙道を瓦で塞ぐと窯焚きの終了です。9時15分でした。

この最後の作業は、熱風陽炎が立ち上がるなか、両腕を防火処理し皮手袋をはめて腹ばいに...。アツゥ〜!
熱風のため、吹き出し口のあちこちに赤い火の粉が消えずに付いたままなのが見えますか?
熱さに顔をしかめ、歯を喰いしばる悟朗氏の顔がよく見えないのは残念。容量オーバーが気になるので小さな写真でご容赦。

1200度から1300度にもなる大口や各焼成室小口の薪の投入数や間隔と回数など、温度管理はかなりの熟練を要し、
陶主の本領が発揮される作業です。
窯出しは31日の予定。お疲れ様でした。
狭い作業場を邪魔して、ご迷惑をかけました。スタッフの皆さんありがとうございました。おやすみなさい。
 
11月5日から秋の新作展「山里の窯出し展」が自宅「石霜庵」で開催されます。


通化寺窯「石霜庵」リンクは、トップページ及び「玖珂天神〜高森天満宮」通化寺の項参照。



(*撮影及びサイト掲載については陶主の許諾を得ています。)



’10.10.22(金)
NHK杯フィギュア始まる

久しぶりに刈屋アナの中継。
解説の八木沼嬢とのやり取りの中で、「ええ」、「そうですね」、「はい」の言葉を多用する。特に「はい」を多用する歯切れのいいアナウンスで心地よく聞こえる。刈屋アナは、大相撲と女子フィギュアだけかと思っていたが、先日大リーグ中継をやっていた。真央ちゃんの調子は今一のようだ。



’10.10.18(月)
79歳の一人旅

  柱野古宿


柱野古宿の千体仏付近で東上する旅人に出会う。9月末頃高森の街角で見かけた老人だ。
門司に住む79歳のこの老人は京都を目指しているという。今日は、玖珂駅前から関戸までの行程だ。「百街道一歩」氏や当方のサイトもご覧になって、事前に作成した詳細な地図を携行している。

御庄から関戸の行程について質問される。「新岩国駅からタクシーで関戸で下車、関戸から新幹線駅まで折り返し、門司に帰る」という。大正解だ。御庄の渡り場は大橋を渡らず、御庄橋を勧める。


さすが、九州の長崎街道や唐津街道、その他を踏破しているベテランらしい余裕のある計画だ。

79歳にもなる高齢の一人旅の方が気になったが、ご本人は山歩きで鍛えているそうで、元気一杯だ。京都までの道程は長くきつい。ご健康でご安全に...。


こちらも、防長路完全踏破か、陸地狼煙場と旧道に限定した旅を時々考える。
サイト掲載と無関係の旅なら今すぐにも出来るのだが...?


’10.10.12(火)
田村悟朗作品展
 “土が動く
周東パストラルホール


10月13日から開催の作陶展。飾りつけ終了の知らせを受けて、パストラルホールへ。

一階ロビーの展示場には、信楽焼きの傑作が前衛的な雰囲気の空間とよくマッチして展示されている。
副題に“土が動く”とある。焼くということにこだわった自然釉窯変の作品。
通化寺窯「田村悟朗」の作風が理解できる信楽焼き限定の珠玉作品特別展示だ。岩国近傍の方は見逃せない作陶展だろう。

11月5日からは、自宅「石霜庵」で”山里の窯出し展”と題した秋の新作展が開かれる。


パストラルホールではこのあと、2004錦帯橋プロジェクトの「祈りプロジェクト」でご存知、美川町出身現代アートディレクターの「原田文明展」が予定されている。サイトの解説をそのまま使わせてもらうと、「空間造形と既成の具像抽象概念とは異なる”具体絵画”とでもいうべき特有の世界を探求しつづける芸術家」だ。
どんな展示物がこのロビーの空間に出現するのか楽しみだ。

今秋の用田の里山は賑やかなことになりそうだ。役目を終えた丸太村の古代ハスも喜んでいるだろう。

     


通化寺窯
田村悟朗作品展
”土が動く”
パストラルホール
10月13日〜24日
(入場無料・月曜休館)

'10.10.10(日・祭)
木野川渡し場の
 
「ごじんじ

木野村中津原の御茶屋
津屋(児玉屋)

天璋院篤姫御小休?




今日は半年以上待った日。孫娘の相手やその他のスケジュールをキャンセル。
木野川渡し場の「ごじんじ」に氏野大明神の「子供神輿」が鎮座する日だ。昼頃座るので11時過ぎ頃現地に着いたのだが、どうも様子が変だ。御茶屋宅を訪ね時間を再確認することに。前回3月に訪問したときは奥さんしかいなかったので丁度いい。

一年後の2011.10.09(日)撮影
さすが祭りの日なので本陣門の両側に提灯と家紋のある幕張りが。右側の提灯には大き児玉氏」とある。運よく今回は主人が在宅であったが、主人の話を聞いて思わず絶句...。
「今年は中止せざるを得なかった。子供(小学生)の必要数二地区20人に対して15人しかいない。このうち、一地区が子供神楽と競合しているため、対応できない。伝統行事を絶やしたくないのだが、今年はどうにもならなかった。中学生も3人しかいない。来年へ向けて行事の内容も検討し、何とか継続したいのだが子供神輿は最悪打ち切りになるかも...。」

ショックで豪華に飾られた本陣門の写真を撮るのを忘れてしまった。このあと昼食のために寄った大竹市小方の大型スーパーには、子供連れの家族でごった返していた。子供がやけに目に付く。近傍地区の子供を補充してでも、灯を絶やさない努力をしてもらいたいものだ。


ただ、今回の再訪問は大きな収穫があった。前回、奥さんと面談したとき当方のサイトを紹介しておいたのだが、その後、若い家族が思案橋付近記載の「岩邑年代記」の記事をご覧になって、篤姫様が当家に休憩したことが分かったのだ。
「岩邑年代記」嘉永六年(1853)九月十一日に「薩州姫君様、昨夜高森泊にて、今日橋御廻り。児玉屋ぇ御小休。今晩玖波御泊の由。---御案内御使者有之に付き、御客屋ぇ御使内坂左門。」とある。
当時酒屋をしていた児玉氏は屋号を「津屋」というが、
「児玉屋」ともいわれていたらしい。文面からみると錦帯橋東詰めに児玉屋と呼ばれる御客屋か茶屋でもあったかのようにおもっていたのだが、児玉屋、即ち芸州木野村の津屋本陣のことだったのだ。本文のほうではK氏と表現していたのだが、本名を記載させてもらっても問題ないだろう。

大名やこれに準ずる高貴な方は、渡し場を利用の際、児玉屋の茶屋(津屋本陣)か店口の嘉屋氏の茶屋の何れかで休息していたのだ。小瀬川(木野川)の渡し場を挟んで両側に格式のある茶屋があった意味が理解できた。ここは芸防国境の渡し場。代表的宿市であった高森と玖波の中間点でもある。

「訂正」:2011.06.11のTV放映で「岩国地旅の会」会長が錦帯橋東詰め大名小路南側にあった御客屋に休息したと説明している。「児玉屋御小休」はどうなる?

岩国徴古館M学芸員に照会したところ、錦見土手町にあった旅館「児玉屋」に休息し、食事もここでとったそうだ。ただし、木野村でも休憩したことにしておこう。それの方がロマンがある。(2013.06.04追記)
(注)錦見大名小路の「御客屋」とは別に、錦見土手町に「児玉屋」と呼ばれる大きな旅館があった。土手町は錦帯橋の南方面になる。当初からここで休息と食事を手配していたようだ。文面からみると、大橋折り返し後多数の御使者が御客屋へ案内され休息したか?





































本文思案橋付近参照
'10.09.20(月・祭)
吉田松陰の
  「絶筆」と「留魂録」


松陰神社宝物殿
  「至誠館」
道の駅「萩往還公園」
  「松陰記念館」


「山口ゆらめき回廊」
   「香山公園」




敬老の日。別に変わった日ではないが、9/18(土)〜20(月・祝)開催の「山口ゆらめき回廊」の最終日。
萩の松陰神社宝物殿「至誠館」を訪ね、帰途香山公園に寄ることに...。「至誠館」は松陰没後150年にあたる平成21年10月27日に開館したのだが、一年も経ってようやく訪問することが出来た。

途中、道の駅「萩往還公園」に立ち寄る。ここは、かって萩有料道路の料金所のあったところ。去年の10月、山口県文書館経由萩行きのときトイレを利用しただけなので、何を売っているのか確認してみたかったのだ。ところが、物産コーナーとレストランは10月13日オープンのポスターが。それじゃあ、今ある建物は何なのか...?


    

建物に入ってビックリ。松陰ゆかりの展示物ばかり。松陰と塾生の人形を配した「松下村塾講義室復元」まである。松陰神社「吉田松陰歴史館」の蝋人形も顔負けだ。
よくみると「松陰記念館」とある。松陰生誕160年記念事業の一環として建設されたらしい。今までは料金を払って通過するだけの関所と物産販売コーナーのある公園とおもっていた。
「吉田松陰記念公園」と名称を変えたらどうか。
「道の駅」の名称がじゃまだ。萩を目前に「道の駅」に立ち寄る人は少ないだろう。

この先、大屋の「涙松の遺址」碑への進入案内表示板も必要だ。
萩往還を歩く旅人は別にして、遠方から車で来た旅人が知らずに通過する。もったいない。
現代になって松陰先生に再び涙を流さすことは失礼だろう。

なんと、館内には吉田松陰の「絶筆」
と「留魂録」冒頭が展示されているではないか。もちろん複製であるが、今回の訪萩の目的はこの二つのサイト掲載が目的であったので幸運...。
「至誠館」にも常設展示されているが、、写真撮影は不可であろうし、掲載許可申請等面倒だ。早速、撮影とサイト掲載の許可をボランティアの館員にお願いし、内諾を得る。このうち、「留魂録」はガラスに照明が反射していたため、「至誠館」で購入した絵葉書を掲載。

複版とはいえ、軸装されたこの吉田松陰の絶筆をしばし眺めていると、胸にこみ上げてくるものを抑えることができない。このすがすがしい筆致と凄みは何と表現すればいいのだろう。


         
 十月二十七日呼び出しの声をききて                 矩方 (矩之)      此の程に思い定めし出立は      けふきくこそ嬉しかりける


帰りに寄った瑠璃光寺はお客さんが多く、なかなかシャッターチャンスがこない。
蒸し暑くてグシャグシャに...。
ファインダーがゆらめき松陰先生の絶筆が浮かぶ。
今年最後の暑さか...。




安政6年(1859)
10月27日刑死(30歳)



検索:「松風会」




















玖珂天神〜高森天満宮
通化寺遊撃軍の項に
追加更新



原本は山口県文書館蔵




何故か矩之とある。
矩方(のりかた)は、諱





'10.09.16(木)
宇野千代」展示コーナー
岩国市周東図書館




「掛軸展」の撤収作業。
450名もの来訪者が...。アイ・キャンのTV放映の効果が?


今回の図書館通いで、宇野千代の常設展示コーナーが新設されているのを発見。彼女の小説の直筆原稿も展示されています。
「危うく絶えそうな話」・「私の一生に書いた作品の中で」・
「ちょっと油断したら」の三点です。
「おはん」の初版本(1957年)の13版刷(1992年)や「生きて行く私」の特装豪華版も展示されています。

昭和初期の高森市の美しい「中央用水型宿市町形態」や「宇野千代先生文学碑」をご存知ない方が多いようなので、トップページの絵を寄贈?しました。



図書館長さん有難迷惑だったかも...?

泉山の椙杜八幡宮に隣接して街道から2分程度なので、旅人も休憩を兼ねて立ち寄る価値がありそうです。
田舎の図書館は気楽に入れる雰囲気があります。
サイトに若干の追記と高森周辺の略図に図書館位置をプロット追加。





岩国市周東図書館
 0827-84-1765












玖珂天神〜高森天満宮
サイト追加更新
'10.09.08(水)
「古い着物で作る掛軸展」
岩国市周東図書館




「さくら草の会」と称する4名の女性集団による「古い着物で作る掛軸展」
訳あって、会場設営の助っ人をしました。パネルの運搬設置、100点もある掛軸等の取り付けに時間がかかり、5時の閉館までに何とか完了? 翌日も若干の飾り付け作業が必要のようです。


周南市の松原照子先生に指導を受けた布遊びの好きな還暦を迎えた女性達の力作...?
「さげもん」や布で作った「小物」の展示もあります。

9日には図書館長の手配により、地元TVアイ・キャンの取材と10日の放映があるようです。

       


9/9(木)〜9/15(水
9:00〜17:00
 9/13(月)は休館日
'10.09.02(木)
竜ヶ岳付近山火事
山陽古道「相ノ見越」付近




早朝、パートナーと散歩していて発見。竜ヶ岳の手前付近から煙が...。前日には高森で民家の火災があったばかり。連日の猛暑で全てが乾ききっているようだ。前日の夕暮れから燃えているようです。

相ノ見峠の北東、通化寺裏山大梅山の南西方向。
山陽古道「相ノ見越」の近傍だ。
ヘリコプターが出動したので、まもなく鎮火するだろう。

狼煙場の煙もこんな具合だったのかも...。



午後からヘリが5機になったが火域は広がった感じ。夕方になってもまだ煙が...。
完全に鎮火するのは翌日か。




'10.08.31(火)
錦帯橋鵜飼総覧

錦帯橋両側の
    遊技場ライト




今日が今年最後の錦帯橋の鵜飼。上流の錦城橋の三脚が今年最高の数に。直方市や広島から駆けつけたお客さんで錦城橋はあふれそう...。
去年の鵜飼総覧は、地元テレビチャーターの屋形船がコースを邪魔して四艘の鵜船がグチャグチャに。テレビ会社よりは屋形船のこぎ手に問題があるようだ。姫路や福岡から来たお客さんがガックリしながら三脚をたたんでいた記憶が...。

先日の20・21日のような大きな鵜船周回ではなかったが、それでも大サービスしてくれた。残念なことにまたもやクロスしてしまったが、今年最後の鵜飼遊覧に橋上のあちこちから感謝をこめた大きな拍手が。

カメラをセットしている途中、錦帯橋鵜飼振興鰍フN社長に出会った。照明灯の消灯については市に申し入れたことがあるが、公用橋の街路灯としての位置付けから難しいようだ。別れ際に「あなた方も一度話してみてくださいよ」。
去年は2008.9のリーマン・ショックから続く不況。今年はシーズン前半の天候不順による遊覧客数の減。社長も大変だ。来年はいい年になってほしい。

ヘェ〜。公用橋と街路灯か......。 こんなことで世界遺産登録は大丈夫か?
街路灯にしては360度、お構いなく強烈な光を放っている。まるで両側にパチンコかスロットの遊技場でもあるようだ。周囲の民家も我慢強い。消費電力も凄いだろう。



'10.08.27(金)
切山村之内鞍懸山狼煙場


徳山からの帰り道。サイト記載区間最後の切山村之内鞍懸山狼煙場(都濃郡)のダメ押しをするため、切山八幡宮付近の民家を訪ねる。サイト本文では地形図のみで確認していたため「JR周防久保駅前から視認できる。」旨記載し、写真も撮ったのだが、低い山のため多少の不安があったのだ。驚いたことに応対してくれた中年の男性が山名はもちろん、狼煙場のことも知っているではないか。今までこんなことは始めてだ。以前、近所の老先生が調査した際、話を聞かされたようだ。

早速、90歳を越える河村氏を訪ねる。防府在の研究家の依頼で鞍懸山を中心に前後の狼煙場を実査されたそうだ。河村氏は「下松市史」の編纂委員もされている。狼煙は松の油をしみこませた藁をいぶったそうだ。やはり、周防久保駅前付近の街道筋からは低いため視認できないようだ。
街道から誤認をしていた。記事と写真を差し替え訂正することに。
それにしても、中年の男性や老先生と出会えたのは奇遇だ。どうしてこんな素晴らしい出会いが多いのか不思議だ。

旧街道を帰る途中、高水正覚寺前の「中所括襄先生頌徳碑」が「高水村塾之址碑」と「塚本与十郎顕彰碑」の中間に移設されているのを発見。これなら旅人にも判りやすい。但し、「調査報告書」に記載がないので何の篆額碑か分らないだろう。これも追加更新。


サイト追加更新
'10.08.21(土)
錦帯橋の鵜飼
鵜飼舟光跡と黄金橋



前日、8月20日の鵜飼舟の篝火光跡。3年通いでようやく最高の一枚が...。
おまけにこの時期、普段と違う錦帯橋の金色のライトアップと鵜船四艘による篝火の競演だ。

アングルから切れてしまうのではないかとおもうほど上流に大きく回ってくれた。ヒヤヒヤしながら眺める。おかげで露光時間は1分程度長くなったようだが、前日に錦帯橋鵜飼振興鰍ノ行ってスタッフにお願いした成果があったようだ。当日も直前になって、東京から来た読売新聞の若いお兄さんにダメ押しをさせるため、鵜飼舟発着場まで走らす。最近は鵜船が小さく回るため絵にならないのだ。

それにしてもどんどん上がってくる。心配になってきた。「どこまで上がれと言ったのか?まさか橋の下まで入れと言ったんじゃないだろうな?」。思わず声が上ずる。「いや、そこまでは。とにかく出来るだけ橋の近くまで...」。話している合間もドンドン上がってくる。周囲から「左がダメだ。」、「切れた。」の声が。こちらも「オイオイ大丈夫か?」。思わず両手を差し出し、体が後ずさる。ようやく舵を切って目の前を通り過ぎた。結果はギリギリOK。左も気になっていたが、これもOKだ。ヤレヤレ。

記念すべき理想的曲線。最高の一枚だ。いかに錦城橋近くまで上がって来たかは、錦帯橋を小さく捉えた広角でお分かり願えるはず。

横山の常連客Nさん、東京のお兄さんと錦城橋の上から拍手喝采。鵜匠が手を振って応えてくれる。
9月第3週の全国日曜版にかなり大きく掲載されるそうだ。この若き青年の記事に期待しよう。主筆寄稿は岩国出身、「島耕作」原作者の弘兼憲史のようだ。

今日も、気分をよくして出かけることに。

8月20日(金) 8月21日(土)

今日が最後の東京の読売青年が開口一番得意顔で、「おじさん。今日はなんだか変だと気づきませんか?」。そういえば、ボツボツ両側の悪魔の照明灯が点灯してもいいはずだが...。「あっぱれ。やったな!」。「今日一日、あちこち頭を下げて回り大変でしたよ。おまけに念書まで書かされて...」。「万が一の渡橋者転倒事故は読売新聞の責?」。「そこまでは...。とにかく色々お世話になったのでこれぐらいはしないと...」。「それにしても、よくやった。大手柄だ。東京に電話して社内表彰してもらわんと...」。「そんなことより、読売をとってくれた方が」。
前々日にはレリーズコードを借りるため、Nさんを家まで走らせたり、「やれ画角は?ISOは?絞りは?シャッターは?ポイントは?」...。 この青年はカメラのスキルもまだホヤホヤでこちらとあまり変わらないが、とにかくアグレッシブだ。

おまけに今日も鵜船は四艘。屋形船は昨日より多い一〇艘。ライトアップにうかぶ黄金色の錦帯橋。こんな最高条件は後先ないだろう。
こりゃあ大変なことになりそうだ。念のため昨日より広角にして下向きに、バランスよくトリミングできるよう細心の注意を払う。カメラの各種設定チェックも念入りに。


ところが、いざ本番になって上鵜飼を終えて錦帯橋上流に並んだ左右の屋方船列のうち、右側が極端に岸際に。そのため鵜船の入りが狭く、重なり団子状に。おまけに何を思ったか、先頭があまりにも早く舵を切り斜め状に上ってくる。いつもはあの付近から小さく回るので、鵜かこぎ手がついうっかりしたか?
今日もダメ押しにお兄さんを走らせればよかった。もう後戻りはできない。そのまま斜め状にドンドン上がってくる。錦城橋の直ぐ下まで来て下流へ。おかげで後続の光跡がクロスしてしまった。折角のチャンスなのにもったいない。途中、左右のあちこちから「切れた。」、「外れた。」の悲鳴が。僭越ながら事前に注意喚起していたのだが...。この両日の橋上のお客さんは意外と少ない。もったいない。

こちらは前日の経験からバッチリだ。欲を言えばもう少し右へ振るべきだった。ただし昨日のような理想的上がりをしたなら問題がある。常連の横山Nさんは屋形船の配列に文句をいいながらも直前に右へアングルをずらしている。さすがだ。
ただ、最終的には左右のバランスからあの位置でトリミングせざるを得ないので、結果良しとしよう。二日共、トリミングする必要がなかったのは珍しい。逆にいえば、広角目一杯に周回したということか。
3番目の光跡がいつもくねるのは、あの位置から急カーブすると舳先の篝火が大きく左右に振れるためだそうで、操船ミスではないそうだがもう少し手前から緩やかに曲がれば...。
しかし、あまり文句はいえない。錦城橋の真下まで遡上することは鵜や鵜匠、こぎ手の方には大変な労力なのだ。屋形船のお客さんからみれば、ドンドン上流に遠ざかる鵜船にビックリしただろう。

それにしても東京のお兄さんの方はどうだったろう。うわさでは渡辺オーナー直々の命令だとか?4台のカメラで駆けずり回っていたが...。失敗は許せられない。そちらの方が気になった。


ここで思ったのだが、ライトアップの期間中に限り両側の照明灯は消してはどうか。エコと経費削減の一石二鳥に...。誰か市長に提案しては? 渡辺オーナーから電話してもらった方が確実?
冗談は抜きにして東京のお兄さんありがとう。名前をTという早稲田政経ボーイの今後の活躍を祈りたい。



絶好の機会なので、このあとNさんと一時間程度頑張ったのだが、風があるため完全眼鏡橋を捉えることは出来なかった。第二橋が多少ぶれてます。

ここで皆さんはどう感じるか。
両側の照明灯がなくても錦帯橋が歴然と見えるではないか。寂々たる姿は、まるで生まれ変わったようだ。ライトアップだけで十分だ。

誰があの青年に頭をを下げさせ、念書まで書かせたのか知らないが、古い慣習に拘っていては進歩発展はない。思い切った勇気ある発想転換が必要だ。


ライトアップのときに限り、錦帯橋左右の照明灯は不要だ。
一石二鳥どころではない。エコ・経費節減・容姿アップ。
副効果として観光客の満足度アップと客数の増。これぞまさしく三位一体だ。
岩国市のオーナーに本気で提言すべきだろう。


税金を払っている者からの要望だ。東京のオーナーに依頼するよりインパクトが大きいと思うが...。
ちなみにNさんの話しによると、今回の消灯は鵜匠さん達からも評判がよかったことを書き添えておこう。

8/31の最終日には鵜飼総覧がおこなわれ、四艘の鵜船がみられるが、今回のようなサービスは二度と期待できないだろう。

'10.08.08(日)
高森天神花火大会
 
天神橋河畔


高森天満宮前川土手から上市方向をみる

錦帯橋よりも大きな玉が...。
さすが田舎の花火大会。
地方の熱意・活力に拍手喝采。


上市高札場跡付近から市尻高森天満宮まで、街道両側に露店が並び賑わいます。

次の賑わいは秋の天神祭。






左側縦長は、右側のトリミング
じゃありません。別物です。
質問が二件あったので念のため。






'10.08.07(土)
Saturday HULA
周防大島
グリンステイながうら




ナイトステージのサタフラ。広島から孫娘が出演。
フラッシュをたきたくなかったのですが、あとで文句を言われそうなので、仕方なく...。

周防大島姉妹島のハワイ州カウアイ島の代表的な建物をイメージして創られたステージ。
やはり、フラは潮風の臭う芝生の上に限ります。


サタフラ参加チームは、地元周防大島、山口県以外に広島、福岡、愛媛、兵庫、愛知、東京等からレベルの高い素晴らしいフラを見せてくれます。
 
      
孫娘たちは、今夜はここで塩風呂に浸かってお休み。明日は海水浴とバーベキュー。
午後から真っ黒になって我が家へ。夏休みが始まります。



検索
「グリンステイながうら」


サタフラ周防大島
7/17〜8/28
毎週土曜日
18:00〜20:00

'10.08.04(水)
第54回岩国市民文化祭
近郊カメラマンたちの
写祭




明日から開催の教育委員会主催の第54回岩国市民文化祭。
写遊倶楽部もこれに参加。岩国市民会館に13:00集合し会場設営。80名、160点の出展です。色々な視点の写真を見るだけでも勉強になります。
8/8・17:00から片付け予定。

設営の写真ばかりでは味がないので出展作品を一枚。
毎年一回だけ蒼い姿をみせる瑠璃光寺です。
2009年10月サイト掲載のため松蔭と晋作の足跡をたどり、山口県文書館経由、萩からの帰途撮影したものです。今回の一人旅では予期しない素晴らしい出会いが何と多かったことでしょう。


8/7の土曜日には、孫娘所属広島のフラダンスチームが、周防大島「グリンステイながうら」で開催中のSaturday HULAに出演予定。
ビデオとカメラの両方でじ〜じは大変です。おかげで8/7の錦帯橋花火大会撮影は時間的に競合するため断念。
この日から我が家の暑く、賑やかな夏休みが始まります。




'10.07.26(月)
パソコン修理完了



6年目のパソコン。半年前からOS起動不可が頻繁に発生し、最近は全く使えない日が続くようになった。DVDオーサリング中にオーバーヒートのため強制断になることも多発する。もう限界だ。

先日、DeoDeo岩国店に持ち込み修理依頼すると筐体を開け内部を点検してくれた。換気扇裏側のCPUラジエーターの上に埃がたまって、まるで綿布を敷いたようになっている。これが故障の元凶だ。掃除機を2回当てたのだが暗くてよく判らなかったのだ。マザーボード取替えを要すという。高熱でコンデンサーでも悪くなったか?ブラックボックスの多いデジ機器は高くつく。NECは50,400円。富士通だとプラス1万円位。ソニーはまだ高いらしい。
PC買い替えを検討したがXP・Pen4の高スペックに愛着があり、Win7に変えると各種ソフトや外付けHDとの整合性が不明。95時代からの各種データーとの整合性も不明だ。修理することにした。オーサリング中、氷水を入れたガラス容器を筐体にくっ付けながら使用して半年以上経過している。マザーボード以外も取替え修理となった場合はあきらめよう。
おまけに、先般のプリンターのように6年を過ぎて部品無しではかなわない。F社あたりは6年過ぎると割り切った対応をするそうだがN社は割りと弾力的だそうだ。この時のためにバックアップも完璧だ。丁度、修理時だ。

7/24に「修理完了。マザーボード取替え・無償」の電話を受ける。
何かの間違いでは?NEC広島サービスセンターに問い合わせると「新規購入すると、最低でも8万円かかる。5万円の出費を覚悟の修理依頼。今回は社内で検討しサービスすることにした。もし、お気に召さないならなにがしの料金をもらってもいいのですが」。電話の向こうから笑い声が...。

NEC広島SCのTさんありがとう。感謝感激である。この次もNECのお世話になろう。

受付時にCPU換気扇・ラジエーターの清掃や各ボードやメモリーの接点清掃をしてくれたDeoDeo岩国故障受付のYさんにも感謝したい。

ようやく水冷方式から空冷方式の正常なパソコンに戻った。本当は水冷方式の方が静音設計で2、3万円高いのですぞ。おまけに私のヤツは、手動氷追加方式水冷なので人件費が高くつくため、なお高級品だったのです...。
それにしても、他のボードやCPUに問題なくてよかった。時々、正常時の筐体の熱さ加減を覚えておいて、換気扇とCPU放熱ラジエーターの点検清掃が必要と痛感した次第。特にラジエーターの間隙の清掃が重要だ。

何年か後に同じ故障が発生したらどうするか?もうお分かりでしょう。見積もりでマザーボード取替えウン万円といわれたらPCを捨てる覚悟でコンデンサーを取り替える。半田付けが出来る方はやってみては?どのコンデンサーが悪いのか分らない?見分け方のノウハウは本屋で立ち読みしたのですが、責任の問題があるので内緒にしておきましょう。その気で見てないので確言出来ませんが容量の大きいヤツは全部変えても4、5本位では?それでだめならWin7にしましょう。その時、私の場合はCore i5以上が最低条件です。高い買い物です。

MS社のXPメンテは来年で打ち切りの情報があります。その1年後にはウイルスバスターもメンテ終了?そのうちプリンタードライバーのメンテもXPを相手にしなくなるでしょう。各ソフトのアップデートもシステムとの整合性に問題が出てくるのでは?98時代、MediaPlayer6.0→7.0のVerUpで苦労した方はお分かりだろうと思います。高い買い物です。
XP-SP2も知らないうちにSP3になってましたが、SP2に比べて少し問題があるようです。MSさん、打ち切りまでに当然アップデートするんでしょうね?


'10.06.06(日)
備前市浦伊部の
  太閤門

  
 最終



急遽訪問。あらかじめ、*備前市歴史民俗資料館に電話で照会して教えていただいていたとおり、目印は備前片山浦伊部の簡易郵便局と妙圀寺(みょうこくじ)。直ぐに分った。郵便局の直ぐ裏の小路にある。詳細は邸内の立派な「太閤門」案内板を。読めますか?
*0869-64-4428

「来住權右衛門口上覺」によれば、この地の豪商、来住法悦の宅に羽柴秀吉備中高松城攻め(1582)の帰途、立ち寄るとの約束に御殿と門を新築したが、秀吉は本能寺の変のため立ち寄らなかったとある。又現在の門は、野面積の石垣が切れる部分にあり、しかも石垣はその部分で枡形となるなど、門と石垣の配置が特殊なものと考えられている。


  

門扉があれば、小さな山城(砦)の大手門のような感じだ。こうしてみると、柱野西氏の「門屋」宅は横山永興寺の予備か?厳島参詣後、天候状況によっては対岸の大野浦付近に上陸し、陸路周防国へ入ることも検討されたのかも知れないのだが...。仮に秀吉本陣永興寺泊を正解としても、本体を上回る大軍勢は当日に柱野西氏、川西付近を中心に休泊したであろうし、前後日も続々と休泊・通過したであろう。3月20日永興寺を発した秀吉本陣自体も道祖峠から柱野西氏を通過せざるを得ないのだ。素人談義はここまでで終わりたい。

伊部付近の旧山陽道(ほぼ国道二号線沿い)を旅する方は、赤穂線伊部駅の東交差点から早足20分程度とおもわれるので、お勧めしたいのだが中途半端な位置なのが残念だ。このあと、「百街道一歩」氏の道中記を参考に一里塚跡や史跡巡りをし、岡山へ戻り墓参り。強行軍でした。

'10.06.02(水)
    〜
03(木)
大内時代の
永興寺と錦帯橋

渡香橋(渡月橋)

伝太閤門関連





岩国徴古館を訪問し、吉川広家が移封する前の臨済宗永興寺の状況を尋ねる。ラッキーなことに、「神仏画展」が開催中で、岩国横山の永興寺解体前の大内時代の「永興寺寺域推測図」「岩国沿革志」(洞泉寺、永興寺)が展示されていた。展示されている絵図の前でM学芸員に説明を受ける。普段なら、口頭説明だけで終わっていただろう。ラッキーというよりは、何でこんな素晴らしい出会いがあるのか不思議だ。

びっくりしたのは、現在の、洞泉寺・永興寺・吉川家墓所のある紅葉谷公園から吉川居館跡・上ノ御土居・徴古館等吉香公園の北部分まで敷地が広がり、本堂、広間、書院、禅堂等がその敷地の大多数を占めている。即ち、御城山麓の東側、岩国横山の吉香公園は全て永興寺の境内ということになる。見取り図は多少の誇張があるようだが、まるで城主の居館や館が連なっているような感じだ。これは、永興寺が大内氏の庇護の下、周防国東端の戦略的拠点であったことを物語るそうだ。毛利元就が厳島の合戦のあと本営を進め、のちに秀吉が天正十五年三月休泊したのもうなずける。
陶氏と共に厳島で滅んだ弘中氏の居館は、中津の毛利氏の家臣加陽和泉守居館跡(かやいずみのかみ)を想定し、現在掘削調査中だそうだ。吉川時代の海路発着の場は川筋を変え、干拓した今津の地で、江戸末期には新湊(現岩国港)に移ることは周知のことだが、弘中氏(大内氏)時代は干拓されているため確定できないそうだ。

天正十五年、秀吉の厳島から岩国永興寺泊の経路は不明とのことであった。不明というよりは古いため検証の仕様がないようだ。ただし、当時の今津付近が海であったことは容易に推測できる。海路か?陸路か?一応写真撮影させてもらい帰宅した。

ブログ書き込みのため改めて図を眺めると、本門の正面には川に立派な反橋が架かっているではないか。「渡香橋」とある。展示室で説明を受けたときには そのスケールの壮大さに圧倒されて、漠然と邸内の堀を兼用した小川と思っていたのだが、錦川のようだ。橋の対岸錦見北側に山塊が迫り、「鳴戸岩」と書かれている。
待てよ...?かって、多田「本庄八幡宮」下にあった紙蔵が引っ越した場所は「岩国領内全図」によって「鳴子岩」(ナルコ岩)付近に移転したと判断し、サイトに記載した経緯がある。これからみると、板橋の場所は現在の錦帯橋のある場所に違いない。川幅はかなり狭い感じだ。岩国領内全図記載の錦帯橋は石積橋台四基のうち、錦見側の二つは河原に、横山側橋台は川部分と狭い河原部分の中間付近にあり、川の中の橋台は実質的に一つだけである。当時の河川の状況は推測することも不可だが、流水部分に架けられたこの反り橋は洪水の度に流されただろう。

吉川広家移封後、慶長7年(1602)春、土居や家中の屋敷を普請し、当年冬には広家は入城し居を構えるのであるが、寛永16年(1639)横山に架かる橋に関する布令から、橋の存在が確認されている。のちの記録に明暦3年(1657)二代藩主広正により、横山、錦見間に橋が架かり、錦帯橋は延宝元年(1673)9月三代広嘉(ヨシ)のときである。これは最近の「広報 いわくに」にも紹介されていて、周知の事実である。翌日、M学芸員に確認の電話をすることに。

〔追記〕6月3日
M学芸員:「鳴戸岩は御蔵や紙蔵のあった鳴子岩に間違いないが、橋についてはまだ検証の余地がある」。
こうした場合、素人は非常に気楽な立場にある。気楽にチャート式で意見を述べることが出来る。(今でもチャート式の言葉は通用するんでしょうか?)

ついでのことに、徴古館に掲載許可申請書を提出し、本項に前述絵図を掲載することにした。チャート式で色々とご推察願いたい。縮小画像のため見にくい字句について
赤字で若干の補足をする。

「伝太閤門」関連




御蔵入りを許されていた藩士、藤田葆(しげる)が明治になって描いたといわれる。











別に並行して作成された同じ図面記載の「岩国沿革志」(洞泉寺、永興寺)には渡月橋とある。


紙蔵は、「多田〜欽明路峠」参照。
 大内時代の「永興寺寺域推測図」(岩国徴古館蔵) 岩国沿革志(洞泉寺、永興寺)」(岩国徴古館蔵) 
       

左から吸江亭・開山堂・本門・渡香橋・鳴戸岩・屏風岩。背後の山間部中央の白山宮は現在同一場所の白山神社
「慶応の岩国領内全図」に左から吸江・ナル子岩フチ・屏風岩とあり、錦帯橋正面には本門が「大内時代の永興寺寺域推測図」にある本門・塀と見まがうように同位置付近に描かれている。
M学芸員によると、
○印の付近が吉香公園の大噴水のある場所。庫裏のある付近の山裾がロープウエーのある場所。吸江亭のある付近が横山と川西の境となる道路の中央に大杉のある大曲り付近で、地名を吸江(きゅうこう)という。開山堂のある付近が現在の永興寺。屏風岩は現在はないが、錦城橋の北側付近。
「岩国沿革志」の図の左半分は折込裏面に記載されている。こちらの橋名は渡月橋とある。

   「慶応の岩国領内全図」(岩国徴古館蔵) ・ 川西河原・横山・錦見・錦帯橋付近         横山・錦見付近略図
 


川西河原の対岸はクリ舟河原。クリ舟渡の上流は吸江河原とある。


吉川家歴代藩主墓所は御塔場とある。
御蔵元の付近が岩国徴古館。
          
「700年の歴史を誇る古刹 永興寺」(宮田伊津美・恵淳禅尼 共著・田山千恵子発行)から抜粋引用。
@永興寺は大内弘幸が周防国東部の拠点として延慶二年(1309)、横山に創建。慶長五年(1600)九月の関ケ原の戦いの後、
  慶長六年八月、吉川広家入封により解体廃寺となるが、元和二年(1616)、広家により再興。
   大永四年(1524)五月大内義興・義隆親子、天文九年(1540)九月大内義隆、尼子勢との安芸国での攻防撃退時に本陣となる。
   弘治元年(1555)九月、陶晴賢は永興寺から厳島へ渡海。十月一日厳島の戦いで勝利した毛利元就は十月八日に永興寺に
    本営を置き防長攻略の拠点となる。十一月十四日玖珂鞍掛城を急襲攻略。十月七日、若山城の陶晴賢長子の長房は杉重輔・
    正重兄弟の急襲を受け長穂村の龍文寺で自刃。杉兄弟は長房の首を永興寺の元就に密かに届ける。
    弘治三年二月二十七日永興寺から出陣した毛利勢一万余騎は、前年二度攻略に失敗した須々万の沼城を総攻撃。三月二日
    これを落とす。同三年二月二十七日に防府の松崎天満宮の大専坊に本営を移すまで、元就は永興寺に滞陣。
   ・同年四月三日大内義長、長府の長福寺で自刃するもこの時代の永興寺は軍事的に重要であり、天正年中では熊毛郡・玖珂郡・
    佐波郡で五〇〇石余の寺領が宛がわれた。
   天正四年(1576)頃か、三月に織田信長に追われた足利義昭が備後の鞆津から柳井へ下る途中、岩国滞在宿所になる。
   
天正十五年(1587)三月豊臣秀吉、島津攻略九州下向のとき十九日永興寺に宿泊。 
A白山宮は社伝によると貞観十八年(876)勧請、元慶八年(884)建立。
    
    こうしてみると、錦帯橋の前身は何時頃からあったのだろう?


'10.06.01(火)
高森泉山
朝鮮の役「太閤陣営跡」
 



前日に泉山の椙杜八幡宮原田宮司を訪ねるが不在。今日も再度訪問したが不在のため、玖珂公民館南谷氏(前岩国教委周東支所長)を訪問。今では彼とは顔なじみで気楽に話が出来る仲だ。注進案に十七世紀まで残っていたといわれる朝鮮の役秀吉下向の際の「泉山」陣営跡について、おおよその場所が分かっていれば知りたい。それによると、
「以前に検討したことがある。参道左側宮司宅手前から小学校の校舎の裏の空き地(御蔵入米蔵跡)を推定している。掘削等の調査はしていない。単なる想定である。参道の右側、保育園付近は以前は春田で往古湿地帯と想定し、山麓の左側付近を推定する方が自然である」。意外と単純な推定だ。

翌日、原田宮司と話し合ったことをここに記すと、
「泉山」自体、往古北東方向の山(現高森高校のある付近の山)と峰続きになっていたとおもわれ、東川によって削られ分割遮断されたと思われる。現在の泉山の高さ2m付近までは、掘ると川砂利が出てくるので、当時東川から水を引き堀を作ることは難しいことではなかっただろう。陣所となればやはり少し高いところだろうから木を切ってある程度の整地をしたのかも知れない」。 
う〜ん。素人にはこちらの方が説得力があるように思えるのだが...。南谷さん。

泉山頂上の椙杜八幡宮本殿の東側石垣跡は、この地に入った大田氏が信仰していた悲願堂跡で、明治元年神仏希釈令によって石段上り口右側に下ろされたそうだ。延二日3回に亘って石段を上り下りした成果は少しはあったようだ。




'10.05.31(月)
中島潔画家と
詩人金子みすゞ

「クローズアップ現代」の国谷裕子


ようやく5月末。昨日まで秀吉の「相ノ見越」と「新道越」の関係を精査して今日は久しぶりに19:00からNHKTVを見る。20:00から「鶴瓶の家族に乾杯」を見るためだ。去年の10月頃からニュースと新聞の第一面をまともに聞いたり見たりしたことがない。某問題が始まった途端、電源OFFだ。TV番組を調べるだけなら「ステラ」の再購読とインターネットだけで十分。新聞購読を止めようかと本気で考える昨今だ。先が見えたニュースなんかどうでもいい。結果は火に油を注いだ結末に...。折角レールを敷いていたのに脱線転覆。国際的な信用はこれで失墜。
これもはじめから見えていた極めて幼稚なストーリー。税金を食い潰しながら遊ぶのは止めてほしい。これ以外の問題も、まるでローマ帝国が各地に設けた円形劇場のようだ。いつか残骸をさらすことに。
大体1%しか見えない連中が毎日のように顔をだす。10倍でも判別できず。100倍でようやく人一人が判明する。これが毎日のように顔を出し、
平和ボケした幼稚な子を振り回す。うんざりだ。我が家のTVはピクセル等倍なのだ。
松陰先生も一世紀ごとに繰り返す茶番劇に嘆いていることだろう。今回の一人旅で自己主張したのは関戸付近の平成の水害と本欄の真央ちゃんぐらいだが、憤懣遣る方なく書くことに。
松蔭先生の関戸越えの長詩や高杉晋作も自己主張ではないのか?う〜んあれは日本人ならだれでも感動するのでは...。

お知らせしたかったのは、19:30からの「クローズアップ現代」。タイトルは「風の画家・中島潔 “いのち”を描く」。題材は清水寺に描いた襖絵、長門の詩人金子みすゞの「大漁」。こんな内容を国谷裕子の番組でやるとは知らなかった。絵もすごいが、国谷裕子が一瞬見せたゆがんだ顔と涙。彼女の素顔と心の奥底を見た瞬間だった。早速、再放送を録画することに。見過ごした方はBS2・6月1日午前0時から再放送が。hiじゃないが仕方ありません。2、3日後にも再放送が確かあったと思うが...。

そういえば、広島カープ初優勝のあと放映されたNHKドキュメント「風雪赤ヘル軍団」(正式タイトル名は忘れました)を缶詰工場で缶詰状態であったため見ることが出来ず、広島大手町のNHKに電話して再放送をお願いしたことが。全国版NHKドキュメントの再放送は過去に例がないとの返事。もし再放送するなら、日曜日の放映を。おまけに数回の予告放映をお願いしたことが...。再放送を見たときは感激しました。この時から、タイガースからカープへ移行。




'10.05.27(木)
(太閤門関連その2)

柱野西氏
「伝太閤門」あとがき





前、直方歳時館長牛嶋英俊氏に連絡を取り、岡山の「太閤門」のある場所を教えていただいた。
備前市浦伊部にあり、史跡「伝太閤門」とあるそうだ。立派な石垣と門だそうだ。文中・略図の表記を伝太閤門跡に変えることにした。近日中に行ってみよう。小生の郷里から2号線を東へ車で30分程度だ。

また、秀吉厳島参詣のあと
「九州御動座記」「岩国永興寺(ようこうじ)に一泊し、翌3月20日呼坂泊」となっている旨教えていただいた。N氏宅に伝わる伝承等を含め現在作業中のようで、忙しい毎日を送られているようだ。今後の牛嶋先生の研究に期待しよう。
また、この情報を得た後、頭の片隅になにかボンヤリ記憶がよみがえってきた。「調査報告書」の高森「新道越」の説明文中に
「九州御動座記」に天正15年3月20日岩国永興寺から呼坂へ」とある。どうも失念していたようだ。失念していたというよりは、永興寺が山陽道筋を外れた史跡のため割愛していたのが本音だ。

岩国横山の永興寺敷地は壮大で、後にこの地に移封した広家はこの寺を解体し、居館や武家屋敷へ転用したようだ。ならば柱野西氏門屋宅の伝承はどうかということになるが、これは専門家の研究結果を待たねばならないようだ。もし、秀吉厳島参拝後3月19日横山永興寺泊を正解としても、秀吉と別コースをとった本陣を上まわる陸路の大軍勢は柱野西氏を中心に分散宿泊し、多田、御庄や柱野は軍兵で埋まっただろう。

なお、今回の玖珂庄一人旅の秀吉下向関係の記載内容についてチェックを行い。訂正と、新規追加をすることにした。
@「相ノ見越・椎木峠越」及び「高森市尻〜中山峠」添付の広域略図に「差川郷土研究会」編の「差川村風土記改訂版」からの引用文記載ミスを発見し、引用文末に疑問を追記。→(「相ノ見越」と「新道越」の秀吉下向時期(島津氏征伐・朝鮮の役)の誤判断。他所にも同様の記載があるので単純ミスではないようだ。)
A差川(廃)宗泉寺での秀吉休憩時期の誤り(上記に準じる)を本文差し替え訂正。

 以上の二点であるが、地方の郷土史研究文献がある場合は極力これを尊重したのであるが、他書との整合性の確認が重要であると痛感した次第...。この付近は差川の蔵田治部少輔教信の自刃時期の関係で疲れ果てていたのだが、それは理由にはならないだろう。













検索:岩国の観光.com

 →吉香公園






サイト訂正追加更新
'10.05.27(木)
(太閤門関連その1
野口の太閤松
野口の「亀山」



「周東町史」記載の「(伝)野口の太閤松」を確認するため、玖珂教委の松岡先生を訪問。柱野西氏の「太閤門」の情報を提供し、伺うが不明。色々話し合う中で「野口となれば、亀山か亀山近辺の往還松しかないだろう。」ということになった。一応、丈六寺跡や杉隆泰隠れ墓の情報提供者野口下のY氏に聞いてみることにした。

Y氏に柱野西氏の「伝太閤門」の説明をし伺うと、開口一番、金田一耕助の相棒警部と同じせりふをのたまう。
〔Y氏の話要旨〕
「先ず、往還松は、以前もらった岩国領内全図記載のとおりの位置にあり、各松の太さは大人三人が両手を広げてつなぎ囲む大きさ。亀山は今は雑木林だが、昔は松林で大小の松があった。頂上部分や傾斜部分に 往還松より一回り太く大人四人が両手を広げてつなぎ囲む太さの大松が5、6本あった。大松は全て雄の松で広く枝を張っていた。特に東南方向の大松は大きく枝を張っていて、毎年籾を干すとき、風に飛ばされて大量の松葉が落ちてきて難儀をしていた。近所の大地主が山を所有していたので文句を言うわけもならず苦労した。何故、 往還松より太くて立派な松が5、6本ここにあるのか思っていたが、それで分かった!間違いない!鉄道によって切り取られた亀山の北半分は、幼少期だったので全く記憶にない。 頂上部は現在の頂上部と一緒である。この山の松と往還松は全て戦時中に切り取られた。」

(2年前に初めてY氏に出会ったとき、亀山と街道筋の関係を聞き、亀山休息は朝鮮の役と聞いたのだが、後日こちらから「島津氏征伐の時」と逆に指摘した経緯があるが、「 太閤松」については全く頭の中になかった。)

Y氏と雑談中、こちらもあることに気づき相棒警部と同じ仕草をする。区間一人旅では割愛しているが、頂上は「玖珂郡志」記載にあるように、結構広く片隅に祠がある。案外毛利氏が休息所として事前に選定、整備したのかも知れない。島津氏討伐計画は一年前に決定されているのだ。間違いない!
野口の「太閤松」は亀山だったのだ。
帰りに松岡先生に報告。

なお、「玖珂郡志」の木ノ類に、「太閤松。野口七曲ヲ下リテ往還ヲ十間計行テ道松ノ内ニ大松三本有。南側ニ壱本、北側ニ二本。是ハ天正十五年、太閤秀吉公、九州御下向ノ時御領主ヨリ植サセ玉フ由也。」とあるのを発見。これが本来の玖珂本郷野口の「往還松」伝承だと思われる。ただし、場所は野口というよりは欽明路付近になる。さすがに、野口のYさんも欽明寺付近の道松については記憶が定かにないそうだ。
(「岩国領内全図」に、欽明寺東西の街道両側に各4、5本程度見られるが、地名は欽明路で、欽明寺の西30m付近水筋(武田屋敷跡前の水筋)から玖珂市頭まで街道に沿って順に、上野口、中野口、野口と地名が記入され、亀山付近は野口になっている。)

亀山は山というよりは低い丘で、2年前に玖珂・高森の町並みと背後の大黒山や徳王山の撮影を試みたが、雑木のため見晴らしが悪くあきらめた経緯がある。旅人はぜひ頂上に上がり、往時を偲び御茶屋の気分で休憩してほしい。西側横に上がり口がある。




「欽明路峠
   〜玖珂天神」参照






、5本と一旦言って、やっぱり5、6本と言い直す。












これが本来の
「野口の太閤松」伝承
'10.05.26(水)
サイト更新
「太閤門」
「市ノ瀬塚山跡特定」




ようやくサイトを更新しました。容量オーバーの頁なので日本語変換には苦労しました。ベタ打ちをして変換確定されるのに約8秒。ワープロミスに気づいて一部削除が確定するのに約5秒。修正字句を挿入して確定するのに約5秒。こんな調子です。頭の中の構想もくるくる変わるので、また同じことの繰り返し。加えてIME自体もお粗末なのでなかなか前に進みません。疲れました。もうこの区間にビッグニュースがあっても虫しましょう。ベタ打ちするとIMEはこんな調子です。一太郎・ATOKがほしくなりました。

「門屋」N氏の門については、堂々と「太閤門」と名乗ることにしました。古記録がないため一笑に付す方もいると聞きましたが、一夜の宿と下賜された帷子・火矢ケ迫を埋め尽くした篝火について伝承がある「門」と、全くない「門」についてどのように比較認識されているのか疑ってしまいます。
「市ノ瀬一里塚跡」特定についても追記更新しました。


'10.05.25(火)
Household Industries 歴史館
「太閤門」
  Part-W

   (最終まとめ)



サイト更新を試みたのですが、運悪く「多田〜欽明路峠」は容量オーバーのページで日本語変換に非常に時間がかかり、おまけに内容が複雑なため語句の変更や挿入・移動・訂正がままならず。このあと、写真の挿入や、一ノ瀬一里塚特定・御庄西氏付近新規掲載事項が控えているため、ここに高次元資料と参考資料を記載し、本文はさらりと通過したいと思います
(注:引用年譜の文末〔〕は引用文献名。まる付き数字は「巻」だと思いますが、あとの−数字はなにかよくわかりません。か整理番号かも。引用は秀吉に関係するものから防長路東部にかかわるものに留めます。右欄外の記事は素人注釈です。

〔Household Industries 歴史館「天下統一期年譜」天正15年(1587)から抜粋引用
3月 1日

3月17日
3月18日
3月20日


3月25日

3月28日
3月28日





7月14日
羽柴秀吉、九州征伐のため約八万の軍勢を率い大阪城を発し、勅使・公家衆・織田信雄らがこれを見送る。〔「兼見卿記」〕 
羽柴秀吉、安芸国廿日市に到着。
羽柴秀吉、安芸国厳島に参詣。
羽柴秀吉、赤間関から豊後在陣中に敗北を喫した黒田孝高へ筑前国秋月城を包囲するよう命令。さらに、浅野長政・戸田勝隆が一両日中に到着する旨を通達。〔「黒田文書」〕

羽柴秀吉、関戸へ着陣。〔「龍造寺家文書」-185〕

羽柴秀吉、長門国赤間の関より豊前国小倉に渡海。
羽柴秀吉、吉川広家へ豊前国小倉に到着した旨を通知し、詳細は大谷吉継に伝達さす。
〔「吉川家文書」@-707〕

                  (以下省略)


羽柴秀吉、大阪城に凱旋。〔「九州御動座記」〕
(注1):「偽文書の可能性、単純な事実誤認、誤記のあるもの」も研究用に網羅されている。
:年譜は主として別冊歴史読本「豊臣秀吉 天下統一への道」(絶版)をベースに、中央政界(朝廷・公家・織豊政権)の視点に立ったものを収集し、これに、古記録や、各県史・市史に収録されている古文書の記述を収録しているが、地域によっては地方史に関する記述内容はまだ十分でないそうだ。(本件、管理人に照会・回答要旨を追加記載。)
(注2):黒田孝高・毛利輝元の中国勢は、前年10月豊前小倉城を攻略、秀吉の下向を待つ。
(注3):和議なった秀吉は海路大阪へ向かうが、赤間の関、備前片山、和泉国堺の地名が出てくる。
(注4):降伏した島津義久は秀吉に先行し、海路上洛する。
「九州御動座記」に、3月20日岩国永興寺から呼坂へ(ブログ5月27日(その2)参照。)
    (3月19日永興寺宿泊ということになる。)
<参考>
「玖珂郡志」玖珂本郷村の項に、「亀山。丈六寺ノ前、往還ノ南ニシテウシ山。明神山ト云。是ハ太閤秀吉公九州御陣御下向ノ時、茶屋ヲ建タルト申伝フ。是、天正十五年ノコト也。上ノ直グナル所、六間 ニ 十二間程有リ。形、亀ニ似タリ。郷俗亀山と云。

「周東町史」の山陽道相ノ見越えと新道越え関係の解説の中に、秀吉九州下向関係の記載があり、一部に下向時の状況が理解できるので抜粋引用して紹介する。
〔山陽道の整備〕の項に、南北朝時代建徳二年(1371)の北朝方武将今川了俊の筑紫下向時における海老坂の寺泊(逆説的に当時の高森付近に旅籠がなかったことを指摘)と永禄7年(1564)の御師橋村氏の「中国御祓賦帳」(戦国時代には旅籠もできていたことを推定)の二例をあげ、新道越えが南北朝、室町期にすでに使用されていたことを示し、大内氏によって宿駅や伝馬制度が整備されていたことを推定したあと、

「新道越えに太閤秀吉の九州下向にまつわる伝承が多い。すなわち、

1.柱野の太閤松          朝鮮の役のとき。
2.玖珂本郷野口の太閤松    天正十五年九州下向のとき。
3.玖珂本郷亀山の茶屋跡    天正十五年九州下向のとき、秀吉休息の茶屋。
4.下久原泉山麓の陣屋跡    朝鮮の役のとき秀吉の陣屋。
5.泉山の太閤御手植松      朝鮮の役のとき。 
6.長野の宗泉寺(注:下差川
) 朝鮮の役のとき休息場となる。
7.米川(注:長野)の城(じょう)  朝鮮の役のとき当地の百姓二名が人夫として徴用された。
8.呼坂の勝間八幡宮        朝鮮の役のとき秀吉が社参して戦勝を祈願。
9.小松原兼清の桜井       秀吉下向のとき命名の井戸
このうち、1から8までは新道越え、9は相ノ見越えのものである。秀吉の伝承は天正十五年の島津氏征伐と、文禄・慶長の朝鮮の役に名護屋へ下向したときの二度の際のものである。
秀吉は全国統一の過程で、関所の撤廃や道作りを積極的に行った。
島津氏征伐のため九州下向が決定すると、天正十四年四月、毛利氏に対して海陸の役所(関所)を廃止すること、山陽道をととのえること、一日行程ごとに休憩所を設営することなどを命じている。(注:「毛利家文書」)それから数年後、文禄元年(1592)三月には朝鮮出兵のため都を出て名護屋に赴いたが、秀吉に仕えた太田牛一の記すことによると、秀吉の一行は四月十一日から十四日まで広島滞在、十五日高森泊、十六日花岡泊、十七日天神国府(防府)泊、十八日埴生泊で十九日には関門海峡を渡っている。
翌文禄二年、名護屋から大阪へ帰るとき秀吉の通ったコースは、芦屋泊−小倉休憩−関休憩−長門国府泊−埴生休憩−山中泊−天神国府休憩−花岡泊−玖珂休憩−安芸国小方泊であった。
先の伝承にみえる「太閤松」は、この両度の遠征の際、山陽道の整備に当たった毛利氏の手によって植えられたものであろう。また、泉山麓の秀吉陣屋跡は、十七世紀の中頃まで堀が残っていたと伝えられる。とすれば、毛利氏がその領国内の山陽道筋に設営した秀吉の御座所は「城構え」と呼ばれるほどの規模であったと考えられる。一里塚が設けられたのもこの時代のことであろう。また秀吉の命名と伝える兼清の桜井の伝承は、相ノ見越の道沿いであるから、朝鮮出兵時の秀吉の軍隊は相ノ見越えと新道越え両路を通行したと考えられる。
高森周辺の社寺や民家は軍兵の宿泊所に宛てられ、物資を徴発され、さらには城(じょう)の農民のように人夫として連行される場合もあり、大いに難渋したであろう。」
とある。

これでようやくサイト更新作業に入れそうです。


特に「周東町史」の解説は参考になる。秀吉の指示を受けた毛利氏が細部にわたって行程を策定し、これにもとづき、宿泊所や休憩所を事前に調査、決定し、これを整備したことは十分考えられる。決して行き当たりばったりで大軍を何体にも分けて行軍したのではないだろう。直方歳時館長牛嶋氏がN氏に語ったように、「太閤門」は決して一夜にして出来たものではないのだ。(今川了俊のときも三百騎の軍勢を三体に分けて行軍したのだが、行き当たりばったりではなかっただろう。)

また、柱野西氏を宿泊陣営の中心と想定した場合、上記「天下統一期年譜:天正15年」記載の「厳島参詣」に注目したとき、ここから小方、関ケ浜付近上陸を想定し、関戸峠経由、翌、野口「亀山」で休息したことを考えると、両者の中間である柱野西氏で一夜の陣を設けたことは素人でも容易に推測できるのだ。その場合、先鋒隊は玖珂付近、後衛は関戸付近にまで分散宿泊し、多田の千石原、御庄田園地帯、柱野の「野とろ原」や途中の浴や谷は一夜の陣を張った兵で充満していただろう。
時は3月であったことにも注目したい。御庄や多田の田園地帯はもちろん、浴の田にもまだ水が入ってない。一夜の陣は容易に取れる。用意周到なのには驚かさせられる。TVや小説でイメージする世界とは違うのだ。そういえば、電話設備の大拡充計画策定時、田植え時期と秋の収穫時期は局外設備拡充工事線表策定には欠かせない要素の一つだった。ただし、計画と実行が狂うことがしばしば発生し、苦労したのは世の常か...。この伝承が立証されることを願うのみだ。素人には、これ以上何も出来ない。
(5月27日、本項追記)
















赤間関からの解釈。
厳島から二日は無理。


?どこの
関戸か?
龍造寺氏は肥前の戦国大名



帰路は海路のようだ。
堺から大阪城へ。



















全文記載。





「相ノ見越」略図メモ参照












朝鮮の役は新道越えに集中
一年前に指示。これを受けて毛利氏は細部の行程を策定か?

「たいかうさま
    くんきのうち」




「太閤門」の参考になる


桜井は島津氏征伐のときと推定しているのだが?
「椎木峠越」から「相ノ見越」に合流し
呼坂経由、垰市、花岡へ進んだと推定。
'10.05.23(日)
Household Industries 歴史館

「太閤門」
 Part-V



〔Household Industries 歴史館これなんだかわかりますか?ハウステンボスの民俗歴史展示館じゃありません。やたらとスペルが長いのですが“サイト名”のことです。

先般、20日に「門屋」のNさんから貴重な話を伺ったあと、秀吉九州下向の行軍記録関係について何か参考になるサイトはないか探し回って発見したものです。5月21日の深夜のことです。(深夜なので実際は22日といった方がいいのかも。)
高次元の研究者集団?による高次元の研究サイトです。このうち「天下統一期年譜」に、膨大な資料を屈指して一表にしたものを見つけました。天正15年だけでも小さな字でA4・8ページもあり、「玖珂郡志」亀山(明神山)と兼清の「桜井」、「たいかうさまくんきのうち」しか知らない素人にとって、びっくりするような詳しさでまとめられています。

早速、一部引用と、ついでにリンク張りを管理者にお願いしたところ、5月22日深夜(23日)発信の了解のメールを頂きました。引用については、作成者が引用した文献は必ず明記するよう条件が付いています。これも当日就寝前に確認した次第で、最近深夜の徘徊が多く日付を間違いそうです。何十年も前に会社の右肩資料作成年月日をよく間違えたことを思い出します。時間を分きざみで書いたこともあります。あの頃は大変でした。

当初、この詳細な年譜の引用を考えたのですが複雑で、解析困難。前後関係に矛盾のあるものもあり混乱をきたすのでやめました。これは冒頭に作成者が断っているように、
「偽文書の可能性、単純な事実誤認、誤記のあるものも研究用に網羅されている」ためだと思います。素人がこれらを検証し引用することは無理です。別途リンク張りをするのみに留めることにしました。

そういうことで、柱野西氏の「太閤門」と「一ノ瀬一里塚跡特定」のサイト更新追加は少し遅れます。
パノラマ写真の編集や略図追加補正は完了しているのですが、柱野駅構内付近の元禄15年以前の旧道筋?も調査しているのですが検証の必要があるし(柱野駅手前は山を切り割って鉄道をつけているので関係ないようです)。本文がいまいちなのです...。今週中にはなんとかなるとおもいます。只今、24日(月曜日)の○時ですが、日誌の日付は23日にしておきましょう。

お急ぎの方は、サイトを検索してみてください。とにかくビックリされるでしょう。先ず、フロントページの「Household Industriesの概要」をご覧になってから本題に進まれることをお勧めします。私は門屋のNさんへA4・8ページ分の年譜を手交の予定です。

やはり、ブログを書いていると作業が遅れます。二重作業もいいところです。次はサイト追加・更新でお目にかかりましょう。



'10.05.21(金)
「市ノ瀬一里塚」特定



二日前からの作業で、久しぶりに「慶応の岩国領内全図」に眼を通す。今回の目的は「岩国領内全図」に記載されている藁葺き民家の慶応と現況の比較調査だ。こんな作業は今回が始めてだ。「思案橋」の西詰め(左岸)、柱野西氏には口屋番所と民家二件が隣接して並ぶ。さらにそこから西南約200m山手方向に「門屋」と呼ばれたN宅(現状桜木2本)が一件あり、この付近の民家は計三件描かれている。旧N宅背後のヒヤカ迫には、今は浴の入り口に移住したN宅を含め数件の家があるが当時の浴に民家はない。

問題はその先、一ノ瀬(市ノ瀬)の塚山の直ぐ左側に隣接して塚山と重なるように家が描かれている。この付近、街道筋の家はこの一軒のみだ。前々日にSさんに出会ったとき、「この地区の一番古い家は、「門屋」N宅と一ノ瀬の「本家」と呼ばれていたS宅の計二件。」と教えてもらったが、彼が指差した一ノ瀬の「本家」S宅は塚山付近の山手の家だ。塚山付近現状道路沿いには民家が一件見える。「岩国領内全図」を改めて凝視すると塚山に隣接した民家の山手方向に家が二件描かれている。塚山付近は塚山隣接の家屋を含めこの三件のみだ。
この三件の内、「本家」S宅ともう一件旧宅を確定すれば、塚山の位置を特定できそうだ。

ここは、本文では「土手下の田が途切れる付近にあったようだが、痕跡はまったくない。」と、さらりと通り過ぎていたのだ。別に逃げたわけではないのだが、この付近は、思案橋の説明・天璋院篤姫錦帯橋お成り・さらには美しい風景と若き松陰の長詩に感動し、それどころではなかったのだ。ただし、略図の塚山プロット位置は正確に記入したつもりだ。

三件の民家のうち、最山手の「本家」S宅を訪問し、これを確定。ついで「本家」宅真下にあった旧「分家」跡を確定。そして道路沿い民家Y宅敷地にあった旧T宅跡を確定。ついに塚山跡を特定!塚山はY宅北に隣接する現状畑だ。
             

「本家」のS氏やYさん、近所のF氏の話によると、Y氏の先代が「思案橋」右岸御庄西氏から当地に引っ越してきたが、以前はT氏が住んでいた。旧T宅は現在のY宅よりも少し街道寄り、クリーム色のプレハブ小屋付近にあって現Y宅よりも1m程度低かった。現状土手道は、当時よりも3m弱高上げ拡幅され、法面も広くなっている。偶然出会った近所のF氏が昔のT宅の位置を詳細に記憶されていたのはラッキーであった。それにしても、「岩国領内全図」に記載の三件の家並みが山手へ向けて微妙に左にずれているのだが、現状とぴったりなのには驚かさせられる。野口下「亀山」近傍のYさんが「恐ろしいほど驚いた。」と言われた意味がよく判る。

ところで、現状畑には高さ1m、一辺2m四方のこんもりと高くなった一角がある。山いもやごぼうを植えるため作られているようだが、トマトが植えられていた。Y氏ご主人は田植えで忙しく奥さんと話をしたのだが、別れ際に「ここは由緒ある場所。トマトなんか抜き捨て芝生を植えて真ん中に棒木を建てよ」。お互いに大笑いしながら別れたのだが、真面目に本気でお願いすればよかったと後悔している。
(翌日ご主人と面談したが、旧T宅は軒柱が朽ちて倒れたため藁葺き屋根が座った状態で在ったそうだ。)



別途、サイト掲載予定
'10.05.20(木)
柱野「思案橋」付近の
     「太閤門」
Part-U



門屋(N宅)を訪問。老婦人は不在であったが、初老の息子さんが在宅。

〔伝承等聴き取り要旨〕(5/21再聴き取りを含む)
秀吉下向の折、当家に一夜の陣を構えたようだ。そのとき、背後の「火矢ケ迫」(注:「岩国領内全図」にヒヤカ迫とある。)に大軍勢が一晩中篝火を焚き陣を張り、浴の頂上部まで篝火と兵で埋め尽くされたそうで、数百どころではなかったようだ。
二本の桜の木の横に門が、背後に母屋があったが、明治36年、藁葺き家屋火災で関係古文書類焼失。門だけが残った。門は昭和30年頃老朽はなはだしく取り壊した。
一夜のお礼に立派な帷子(かたびら)を置いていったが、同火災で焼失。
秀吉の宿泊時期は不明だが、かろうじて持ち出し焼失をまぬかれた一番古い位牌が1624年死没なので、少なくとも1590年ごろには生存していただろうから天正15年(1587)島津氏征伐のときではないだろうか。
5年前に秀吉の九州での行動や宿陣関係を調査している福岡県の「市立直方歳時館長」牛嶋英俊氏のことを日経新聞の記事で知り、氏に連絡、訪問を受け、中国地方調査のとき裏付け調査の約束をしてもらっているが、現段階まだ回答はない。牛嶋氏の話では、この種の門屋の類似事項として、岡山に「太閤門」の史跡があるらしい。
牛嶋氏の話では門屋(もんや)の謂れは、かなり前から宿泊の事前通知をし、宿泊するので門を作れ(屋敷を整えよ。)ということらしい。百姓屋であるが、特に門を作ることを許されたようだ。当時は、この地区の年貢の集積や世話役をしていたようだ。
古文書・帷子を焼失していることと、吉川時代以前のことなので徴古館には相談していない。伝承だけは後世に正確に伝わるよう日常配意している。            以上。
(注:「岩国領内全図」に、桜の木のある付近に民家が1件記載されている。現在の桜木横の民家は分家) 
ここで、素人は愚問を投げかけている。「当時は庄屋だったのでしょうか?」。「いや、そこまでやっていたようではないようだ。・・・(前述のくだり)・・・」。「それじゃあ、刀禰か、それ級だったんでしょうね?」。時代が違うのだ。恥ずかしい。この地区の有力者・土豪で毛利氏配下となった地侍であったのだろう。
                

参考:「当サイトでの関係記述」
1:「玖珂郡志」:玖珂本郷「亀山」の項に、太閤秀吉公、九州御陣御下向ノ時、茶屋ヲ建タルト
  申伝フ。是、天正十五年(1587)ノコト也。
2:亀山の次は「椎木峠越」から「相ノ見越」通過を推定し、小松原兼清の史跡「桜井」での休憩。
3:朝鮮の役(天正20年・文禄元年)の名護屋下向。

  ・「たいかうさまくんきのうち」・(「注進案」)に4月15日(厳島経由)高森泊。翌16日花岡泊。

  ・伝、3月勝間の御所ケ原に一夜の陣。勝間八幡宮と社号変更。帰路再び立寄り、諫鼓踊と太刀奉納。

話は変わって、前日のS氏の兎道の件は、「岩国領内全図」によると山裾に細い赤線で描かれているので、往古の道筋であったのだろう。
御庄西氏のSa氏等の話を含め総括すると、御庄西氏や柱野西氏の西側低地に田がある往還土手道は、昭和初期頃までかなり低かった。土手道沿いの民家も水害のたびに山裾や他地へ移住した。昭和26年のルース台風水害後や昭和34年の五所ダム建設時の河川改修にあわせ、逐次2〜3m前後高上げされたようである。現存の往還松は全て現状土手道川側に沿ってあった。Sさんの話では、思案橋付近から柱野駅近辺の御庄川の川敷きは、右岸川敷きにあった畑を潰して改修拡幅されていて、昔の川幅は現状河川敷の1/3ぐらいだったそうだ。

やはり「岩国領内全図」は正しかった。ただ、柱野西氏でS氏と出会ったことが「太閤門」という事実に遭遇し、おまけに 「市ノ瀬一里塚跡」を特定することになろうとは...。塚山は翌日に調査、記載することに。

やはり、旧街道筋を通行する際は絶えず問題意識を持って運転することが重要だ。ただし、「交通安全協会」からクレームをつけられそうだ


サイト掲載用に資料整理しながら、同様の事項をブログに載せるなんて大変です。二重作業もはなはだしい。久しぶりに深夜作業をしました。


別途、サイト掲載予定










牛嶋英俊氏著書に
「太閤道伝説を歩く」
「弦書房」2006.03発行



























野口下」略図のメモ参照
'10.05.19(水)
柱野「思案橋」付近の
  屋号「門屋」宅
  「太閤門」 
   Part-T




雨上がりの一時を狙ってカメラを積んで錦帯橋へ。橋に霞がかかっているかと思いきや残念ながら...。
カメラを車にしまったまま付近をうろついていると、三脚にカメラを装着した二人の外人に出会う。どちらも大男だ。「どちらから?」。「シアトルから」。「えらい日本語が上手ですね」。「以前、日本に居たんでね」。カメラを見てびっくり。D700FXだ。フル
CMOSだ。こちとらのものは、引き算しても答えの中にも入らない。板型のフィルターを左手でレンズの前を盛んにかざす。上部がミストになったやつだ。「これは日本製?」。「いや、たぶん日本には売ってないだろうね」。「このあとどちらへ?」。「シアトル」。

雨が降り出したので、あきらめて帰ることに。車のハンドルがやけに重い。途中、柱野西氏の思案橋左岸(西詰め)、口屋番所のあった付近の古い民家の前に古老(S氏という)が立っている。ここは
年前頃3回訪れチャイムを鳴らすが応答なし。空き家と思っていたのでラッキーだ。一旦通り過ぎたが、思い直してバックする。俄然元気がでてきた。

元禄15年桟道新道のうち、思案橋付近から(想)市ノ瀬一里山付近にかけては、現状土手道(県道)は多少道筋が変わっているのではないかとおもっていたからだ。土手道の西側は低い田が続いているため少し山手寄りではないかとおもえてしかたがないのだ。「慶応の岩国領内全図」は現状土手道とほぼニヤリィに描かれている。ただし、あまり詳細に追求することは禁物だ。逆に山裾の一部が川の方へせり出していたことも考えられるからだ。折角なので確認だけはしてみたい。

S氏への聞き取り要旨は
「自宅の直ぐ裏に兎道があり、わずかに西へずれながら山裾伝いに一の瀬付近の高台に向かっていた。以前、これが昔の道筋と聞いたことがあるが定かでない。ただ、一の瀬から思案橋方向(北方向)に往還松が一本残っていたが、これは現状土手道の川側にあった。一の瀬山塊を柱野市方面に向かった先にも往還松があった。御庄川右岸、柱野駅手前の鉄道敷法面を兼ねた高い川土手にみえる細い道筋は、この付近から駅への近道としてよく利用したが、いまは手前の河川敷内部分が通行不能である。これが右岸の旧道筋だったかもしれない。(翌日、山裾へ向かう兎道は 往還松の関係から街道と無関係と判断。山裾へ迂回の古道か側道かもしれない。)

このあと、小雨のなか近くの「西氏バス停」に移動し南西方向を指差しながら、とんでもないことがS氏の口からついてでたのだ。こちらは一瞬、我が耳を疑い、話を聞きながらボーとなった。頭の中が野口「亀山」や小松原兼清「桜井」の情報と重なり、くるくる回転し視神経からの情報とかみ合わなくなったのだ。

「思案橋西詰め西氏バス停の南西150m方向、桜の木が2本ある場所に、かって屋号門屋(もんや)と呼ばれるN氏屋敷跡があって、立派な門だけが残っていた。門屋には秀吉九州下向のとき、ここに宿泊した口承が伝わっている。古記録、裏付け文献が焼失皆無なため一笑に付す人も多いが、ご当家はいたって真面目だ。門屋の新宅には96才になる老婦人が健在で、私よりしっかりしている。」

この老婦人は2年前に畑で出会い、JR柱野駅前の橋名が何故か「西氏橋」になっているため、「西氏」と「一の瀬」境や一里山跡を尋ねた方に間違いないと思うが、別途、晴天時に再訪問することにしよう。


サイト掲載は門屋の新宅を訪ねてからでも遅くない。雨の中撮影した写真も、もう一度撮り直そう。

'10.05.09(日)
通化寺窯陶展


柳井白壁の街、難波庵で開催されている「通化寺窯陶展」へ。
展示会場内の一角に座敷がある。さすが白壁の街らしく風情があっていい。
盛況でなにより。

5月30日まで開催。  「通化寺窯」リンクはトップページから。

'10.05.04(火・祭)
欽明路峠七曲坂
 猿出没!


連続して書く予定ではなかったのだが、連休の「じぃじ」の役目を終えて所用で岩国へ。最近はたまに旧山陽道を走行するが、欽明路峠の頂上で七曲坂旧道を徘徊する小猿三匹を発見。慌ててシャッターを切る瞬間、親猿夫婦らしき二匹が木陰から飛んで来て、あっという間に山中に。猿も遊歩する七曲坂旧道。人間様も通行しない訳にはなるまい。旅人はぜひ体験通行を。熊出没!はないので御心配なく。
            
写真の左端に2箇所写っています。三匹の子供の横にそれぞれ親が飛んで来て寄り添ったと思った瞬間、山中に。あっという間で、写真は一枚。


「欽明路峠〜玖珂天神」
'10.05.03(月・祭)
 岩隈八幡宮奉納
   谷津神楽・石樽




毎年、5月3日12時から奉納の谷津神楽を見学。先ず最初に大人も子供も握り飯で腹ごしらえ。子供神楽にはあどけない顔が。大人たちに混じって鉦を鳴らす小さな女子も。伝統の継承は確実におこなわれているようだ。それにしても、観客の少ないのはどうしたことか。

ついでに、八幡宮の石樽を写真に...。社務所にいた青年に由来を尋ねると、「私も最近興味を持ったので調べてみたら防火用水を兼ねて献上されたそうです。」とおっしゃる。上から覗くと浅い酒杯状で深さ15cm程度。中にはすずめの涙程度の雨水が。いくらなんでも、御神酒と雨水を混同してはいけないだろう。石樽というよりは、御神酒献上石樽といったほうが...。これなら防火用水を発想することはないだろう。台座に昭和八年献上とある。
献上した人たちの涙ですぐに満杯になりそうだ
   

'10.04.29(木・祭)
欽明路峠七曲坂

「街角探検家」と出会う



野口下のYさんと欽明路峠の欽明路側「案内板」付近をうろついていると、峠を下ってきた若い旅人に出会う。なんとハンディGPSを携行している。歩いた行跡が地図上に残るそうだ。頂いた名刺に「街角探検家」I 氏とある。欽明路駅から広島へ帰るそうだが、史跡巡りとは少し視点が違う。サイトの名前も「都市考現学研究所」。マンホール蓋の模様を調べたり、銭湯等多種多彩だ。ユニークでおもしろい。広島ホームTV土曜日深夜放映の「ホビーの匠」に時々出演するそうだ。ブログのリンクに「山口街角コレクション」あり。この中に岩隈八幡宮の石樽が紹介されている。当方は絵葉書的写真を撮るのに気がひかれて、うっかり見逃していた。それにしても、「夕になりぬれどきこりだにかえらぬ、人ばなれたる山中」を何を調べて歩いて来たのか聞くのを忘れた。聞かなくてよかったかも。

本題に戻って、Yさんによると、七曲坂の二つの急カーブがあった山陽自動車道によって消滅した付近の勾配はかなりきつく、空の車力でも上るのに二人がかり、下りは取っ手を肩に乗せ押し上げ、補助者は荷台後部を押し下げて地面を擦りブレーキ代わり。大変な坂道だったようだ。松陰先生も駕籠を降りて...?
こちらは相も変わらずこんな感じだ。サイトに追記しました。




検索
hp:「広島街角探検
      コレクション」

blog:「都市考現学
         研究所」
リンク:「山口街角
       コレクション」
'10.04.20(火)
 木野川渡し場
 「ごじんじ」(「神事場」)



小瀬の渡し場対岸にある「ごじんじ」「神事場」表記について、大竹市教育委員会に照会していましたが、回答を得たのでサイト冒頭に追記更新しました。もう少し早く掲載したかったのですが、春の畑作業が忙しく、ようやく...。
去年の今頃は、サイト掲載作業たけなわで、おかげで春の農作業は1か月以上遅れ、散々でした。久しぶりに深夜作業や徹夜も。この時期はカメラ片手のおでかけも多く大変です。

木野川渡し場を再度訪れ帰る途中、両国橋を渡ったところで「関戸峠とう谷」狼煙場を偶然遠望し、写真撮影。関戸からも視認することが出来ました。中津原「氏野大明神」のご利益があったのかも。

       
      








サイト追記
'10.04.08(木)
 通化寺の桜



5日満開。7日頃から花びらが舞い始め、阿川毛利氏墓所も落花に霞む。第八十四番屋島寺石仏像の傍らには早くもツツジが満開。

   

'10.03.24(水)
通化寺窯



窯焚き四日目の通化寺窯にお邪魔しました。早春の窯焚きは半地上式穴窯。
もう三日間焚くそうです。常時1200度弱の窯の中には信楽焼の傑作が...。不眠不休の七日間です。窯の雰囲気は良質の松の薪を使うため黒煙とススで蒸気機関車のようですが、目の前には神酒とサカキが供えられています。助っ人二人と三交代制で、約5〜7分おきに薪をくべる大変な作業です。
炎がコロナのように舞い、釉の溶ける様が...。ND8でなんとか絵になりました。

通化寺の桜は、まだ三分咲きです。



'10.03.22(火・祭)
淡墨桜
宇野千代文学碑
宇野千代生家




3月20日、山陽筋の下関、岩国、広島に例年より1週間早く開花宣言。
慌てて高森の文学碑と川西の生家を訪ねました。高森は八分咲き、川西は満開。毎年思い立った頃には散ったあとで、今年はなんとか間に合いました。やはり淡墨桜は染井吉野に比べるとかなり小さく可憐な花びらで、1週間から10日程度早く咲くようです。可憐な花は色は違うが姫紗羅のようです。散り際の淡い墨色を確認してみようと思います。
本文の文学碑の写真をやり変えました。
    

'10.03.02(火)
野口の大日堂
八十八か所観世音菩薩像


玖珂教委の松岡先生と野口の大日堂(寺)へ行って来ました。お堂横に整然と並ぶ舟後光地蔵形の石仏群を調査するためです。八十八か所観世音菩薩像と判明しました。最近になって一ヶ所に整理されたようです。最初眼にしたときはざっと七十数体とおもっていたのですが、改めて数えてみると八十五体ありました。当初は何の石仏像か不明のためサイト未掲載にしていたのですが、早速追加掲載することにしました。ついでに中野口の児玉氏が大正十一年に建立した「学制頒布五十年記念碑」も掲載することにしました。周防武田源氏に始まるこの地の育英事業は、こうした人たちの支えや努力で継続されているのでしょう。


サイト追記
'10.02.26(金)
おわり
「刈屋富士雄」アナのこと



「終り」といってもバンクーバーのこと。閉会式の前に終わったも同然です。
真央の今後の飛躍に期待しましょう。
4年ぶりに、刈屋富士雄アナウンサーの名調子を期待していたのですが、残念!
「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」・「小西さん、どうぞ泣いてください」・「トリノのオリンピックの女神は荒川静香にキスをしました!」が有名ですが、それよりも緊迫感のなか、イナバウワーに移る直前、「荒川静香、長野から8年の思い!」
金メダルを予感したかのような緊迫したこのシーンが一番印象に残っています。

演技の中の一コマと音楽のフレーズを捉えた一瞬のセリフ。瞬間、体が震えましたが、この一瞬にどれだけの事前研修と準備時間が費やされているのでしょうか。今でも一年に数回このDVD録画をみていますが、この感激は失せることはないようです。エキシビジョンで流れたケルティック・ウーマンの「You Raise Me Up」。あとで歌詞を知ってビックリ。金メダルを予感していたのは荒川静香本人のようです。
シーちゃんセンスあるなあ...。
刈屋アナのおかげですっかりフアンになってしまいました。毎年の広島公演が楽しみです。

”誰も寝てはならぬ”の調べにのって優雅に舞う名場面とこの名ゼリフを4年間抱いてきたのですが、今回は聞くことはなかったようです。曲と忿怒相的演技が重苦るしく(失礼!重厚でした。)、彼の口まで...?
彼がインタビュアーなら
「いいよ真央ちゃん、先ずは思いっきり泣きなさい」。そう言ったかどうか...。

今回の競技を辛口評価させてもらうなら、たとえキムさんと同じ選曲でまったく同じ演技をしても4、5点以上の差で負けていたのでは?うなじから肩の線、肩から手首にかけての優雅な動き、手首と指先の優雅で繊細な動き、この三点で負けていたでしょう。3点差ではないのか?
とんでもありません。女性の手首と指先の動きはバレエには重要なポイントなのです。男子バレエではないのです。フィギュアスケートは氷上のバレエじゃないんですか?高価な衣装や手袋で女性特有の特権を隠す必要はないとおもうのですが...。シンプル・イズ・ベストが女子バレエの原点では?
バレエの研修にロシアにいったつもりが、革命前後の圧制に苦しむ民衆の不満や社会体制の勉強をして帰ってきたようです。4年先のオリンピックなら少々のミスがあっても間違いなく金だったでしょう。
真央フアンとしてスタッフの猛省を望むところです。このままでは、4年先に第二のキムに負けそうです。

それにしても、あの人、「大相撲」と「NHK杯女子シングル」実況だけでは何かもったいないですね。

彼以外にも「野球中継」で素晴らしいアナウンサーが二、三人いますが、定年延長はあるんでしょうか
彼らのような人こそ、声がしわがれても聴き続けたいとおもうのですが...。
期待して視聴料を払い続けましょう。



検索
「刈屋富士雄」





























長谷川・道谷・小野塚
'10.02.10(水)
映画「獄に咲く花」



MOVIX周南で“吉田松陰生誕180年記念映画”「獄(ひとや)に咲く花」を観覧。
下関出身の直木賞作家古川 薫の「野山獄相聞抄」の映画化です。野山獄唯一の女囚、高洲 久との出会いと別れを中心とした物語。山口・福岡県先行上映だそうです。

江戸へ向けて護送される日、護送役人の「出立!」の声と共に駕籠が地面を離れる瞬間、思わず...。
意外と野山獄が開放的であったことや護送網駕籠の様子が参考になりました。


もちろん、最後は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」で終わります。

この時期の映画は、3D「アバター」じゃないのか? 
う〜ん...。感動するのは...。

「アバター」よりは、孫娘に連れて行ってもらった?「アリス・イン・ワンダーランド」の方がよかったですよ。
年寄りには、最後のマッド・ハッターのほろ苦い別れのほうが...。この映画の主役は彼です。
そして若き女性の新しい人生の始まり...。


'10.02.05(金)
岩国市有形文化財
脇差 二王清□作
 
       「二王刀」
(三島神社蔵周東町須通)

 
   軍配團扇
(三島神社蔵周東町須通)

短刀
周防国瘰X住二王清綱

(個人蔵)




写真は三瀬川の浄円寺住職(周東文化協会理事・岩国郷土史会副会長)、藤島正雄氏撮影です。
二王刀 : 刃渡り一尺六寸、反り四分五厘の脇差。 刻銘に「二王清□作」とある。
脇差鞘に「奉寄進願成就、寛延三庚午天七月吉日、森脇重衛門安信敬白」の墨書。

吉川家老森脇安信が願成就のため寄進した1750年は、享保一揆、元文の錦見丈六寺事件(1738年)の後であり本藩の介入、領替問題、生母正理院を中心とした領政等、政治的、経済的に危機的状況であった。            
                                       

藤島氏の話によると、吉川氏の庇護にあったとはいえ、吉川領最西端で本藩領に接する須通村三島神社へ祈願したのは、武士にとって「刀を寄進願成就」することは、万一の場合命にかえることを意味する最大事であり、周囲をはばかり城下町近辺を遠く外れた地を選んだようだが、須通も領替問題の渦中にあったようだ。
                                (詳細は本文「玖珂天神〜高森天満宮」参照)


他に、二王清綱に関連する有形文化財「短刀 周防国瘰X住二王清綱(個人蔵)があるので紹介する。
                    瘰X(すぎのもり)は高森の古名。(杉森・椙杜・高森)

 軍配團扇(ぐんぱいうちわ)(2014.02.04追加)
社伝によれば明治四年(1868)七月の廃藩置県に際し、旧藩主吉川経健公が甲と共に寄進せられたと伝えられている。羽及び留め金、被せ金などに吉川氏の家紋である九曜紋をあらわしており、吉川当主が使用したものと思われている。

吉川氏念願の大名引立は、大政奉還後の慶応四年三月(明治元年・1868)であるが、明治二年の版籍奉還を経て、明治四年(1871)七月廃藩置県によって藩制(藩知事)は廃止される幕末激動期をも乗り切り、慶応四年三月十三日今田孫四郎太政官に出頭、吉川監物(経幹)を長門宰相毛利敬親の末家となすべき沙汰書を受領。家老森脇安信の願成就は叶うのである。
(注:監物は慶応三年三月二十日死去。このときまだ喪を伏している。)


















短刀
周防国瘰X住二王清綱

(個人蔵)
’10.01.28(木)
大梅山通化寺
「大梅開山大和尚塔」
(慧極道明禅師




田村悟朗氏に案内してもらいました。「通化寺窯」裏の大梅山への山道の途中にあります。

「大梅開山大和尚」は長門出身の黄檗三傑の一人、慧極道明禅師のことで、のちに萩東光寺開祖。
おかげで、通化寺は東光寺の末寺となり、なんとか面目を保っています。

早速、サイトへ追記しましたが、ついでに「遊撃軍遺跡図」も全面的にやり変えました。






サイト追加更新
’10.01.25(月)
椙杜八幡宮
板絵著色
三十六歌仙図

(八点、抽出掲載)
























ここは、

日々是見聞録

日々、追記・更新の
ページです



椙杜八幡宮 板絵著色三十六歌仙図
奉納年月 : 元禄二己巳年(1689)九月吉日
書:大納言葛岡修理 ・画:高橋縫殿亟 ・大宅光隆  ・板材寸法:(檜) 429×264×15mm
歌人は、かの有名な方。 尾崎・藤嶋氏は高森の庄屋を勤める。
相川氏は高森本陣を勤めた。
参道大鳥居は元禄四年相川、藤嶋氏の奉納
畳屋とかご屋の奉納。というよりは、歌人が姫君でドキッとする歌なので掲載。容姿を恥じるということは、逆にかなりの美女であったということか。
書:大納言葛岡修理の名がみられる唯一のもの。    母娘の奉納
指川村庄屋田中氏は、杵ケ迫で自刃した
大内氏戚族蔵田治部少輔源教信の末裔

歌が何かしら意味ありげ...。
古道一人旅に打ってつけの歌。
淡海道標手前付近が
   こんな感じだったことが...。
           以上、八点抽出掲載